ある恩給だけでたいへんつつましく暮らしているが、剛子がキャラコの下着《シュミーズ》をきているのは、それには関係がなく、もっと深い感情のこもったことなのである。
二
槇子《まきこ》が、胸のうえに手を組みあわせ、グレース・ムーアのように気取りながら唄い終ると、
「おお、|美事です《シャルマン》!」
と、感にたえたような声をあげたのが、越智《おち》氏である。
越智男爵の三男で、このホテル中でだいいちの洒落《しゃれ》者といわれるだけあって、さすがにすきのない身ごしらえだ。生地はウーステッドのストライプもの。ラベルをロング・ターンにし、よくこれで息ができると思われるくらい胴をしぼってあるので、うしろから見ると、蜂のような腰つきに見える。
三十を三つも越しているのに、なにをするでもなくのらくらとこんなところで日を送っている。もっとも、越智氏にとっては、これがだいじな仕事だともいえる。できるだけ社交界にしゃしゃり出て、金持の養子のくちにありつこうとしているのである。努力のかいあって、いままで二つ三つそういう口があったが、いつの間にかたち消えになってしまったのは、たぶん汚《きたな》い腹を見抜かれたか、財産の点で折れ合いがつかなかったからであろう。
なんだかしら、最近目だって沼間氏の家族は愛想をよくする。『社交室』では、姉の方だろうか妹の方だろうかと、たいへん気をもんでいる。越智氏は姉娘の槇子の方にも妹娘の麻耶子《まやこ》の方にも等分に愛嬌をふりまくので、どうにも掴まえどころがないのである。
だれもあいづちをうってくれないので、越智氏は間のびのした薄手な顔を隣りへふりむけて、
「じつにもって、たいした才能です」
これでもか、というような大きな声でくりかえした。
越智氏の隣りに坐っているのは猪股《いのまた》氏である。もうそろそろ初老の年輩だ。粋《シック》ではないが、このホテルの滞在客中でだいいちの金持である。この節、もっともあてた軍需工場の持主で、すくなくとも五六百万は動くまいという社交室の測定である。教養のない実業家のタイプにありがちな、粗野で、ずぶとそうな印象を与えるのは、あぐらをかいたような鼻と獅子噛《ししが》んだ厚い唇からくるので、内実は、臆病なほど気が優しいのだと取沙汰《とりざた》されている。
猪股氏は、不意をつかれてヘドモドしていたが、つぶやく
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