ない。
「笑うのは下等よ。もっとも、あなたのは特別だけど。……口をしめなさい奥歯が風邪をひく」
 剛子は、奥歯が風邪をひかぬように、あわてて掌で口をおさえる。
 剛子は退役陸軍少将石井長六閣下の末娘で、今年十九になる。しかし、笑ったり跳ねたりしているときは、十七ぐらいにしか見えない。
 剛子《つよこ》とは妙な名前だが、これは剛情の剛ではない。質実剛健の剛である。長六閣下は、これからの女性は男のいいなりになるようなヘナヘナではいかん。竹のようにしなやかで、かつ、剛健な意志をもたねばならぬという意見で、それで剛子と名づけた。剛子は父の望みを嘱《しょく》されているのである。
 剛子が自分の名をいうと、相手は、かならず聞き違えて、
「ああ、露子さんですか」
 という。すると、剛子は、
「つゆではありません、剛よ」
 と、丁寧に訂正する。父の希望のこもった大切《だいじ》な名を間違われるのはいやだからだ。つゆ子なんて名は、なにか病み細って、蒼い顔をしてうつむいている女の姿を連想させる。剛子はそんななよなよした女性は嫌いなのである。
 剛子には、もうひとつ、「キャラ子さん」という名前がある。
「キャラコ」のキャラは、白檀《びゃくだん》、沈香、伽羅《きゃら》の、あのキャラではない。キャラ子はキャラコ、金巾《かなきん》のキャラコのことである。
 剛子がキャラコの下着《シュミーズ》をきているのを従姉妹《いとこ》たちに発見され、それ以来、剛子はキャラ子さんと呼ばれるようになった。
 ある日、社交室の満座のなかで、槇子《まきこ》がキャラコの由来を披露したので、みなが腹をかかえて笑い、思いつきのいいのに感服した。
 すこし手ざわりの荒い、しゃちこばった、この貧乏な娘にいかにもふさわしい愛称だと思われたからである。それで、だれもかれもがこの愛称で剛子を呼ぶようになった。
 剛子はこういう愛称でよばれるのをかくべつ不服には思わない。キャラコの下着《シュミーズ》をきていることを別に恥だとかんがえないからである。垢《あか》じみた絹の下着《シュミーズ》をひきずりまわすよりは、サッパリとして、清潔なキャラコを着ている方がよっぽどましだと思っている。そして、これがまた父の意見でもあったのである。
 長六閣下は、いつも、こういう。
「絹ではいかんな。木綿のような女でなくてはいかん」
 剛子の一家は、父の光栄
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