かが絶叫する。ほとんど泣いているような声だった。
「元気をだしてくれえ」
 キャラコさんは、大声で声援しようと思うのだが、なにか咽喉につまってどうしても声が出なかった。
 永久無限とも思われる長い時間だった。
『恋人』は、ようやくあと十間ほどのところへ迫ってゆきつつあった。
「早く、早く!」
 キャラコさんは夢中になってあしずりした。こんな辛い思いをするのは生まれてからこれが初めてだった。
 ワニ君が躍り上って叫んだ。
「つかまえたア!」
 越智氏が、金切り声を上げた。
「マキちゃんが、水の上へ頭を出した。……大丈夫! まだ生きてる!」
 ようやく、この時になって岬の鼻から漁船が漕ぎ出してきた。しかし、漁船と二人の間は十四、五町もへだたっている。
『恋人』は、槇子を水の上へ押しあげながらいっしんに泳いでいるが、もう力がつきはてたらしく、時々波のしたへ、がぶっと沈んでしまう。
 望遠鏡を持ってキャラコさんのうしろに立っていた山田氏が、身もだえしながら叫んだ。
「いま船が行かなければ、沈んでしまう」
 漁船は、見るも歯痒《はがゆ》いような船足でのろのろと近づいてゆく。
『恋人』の姿は、やや長い間海面の下に沈み込んでいたが、最後の勇気をふるい起こしたのだろう、槇子を抱えながら漁船へ向って泳ぎ出した。
 見るさえ苦痛な十分間だった。……しかし、漁船はとうとう『恋人』のそばまで漕ぎ寄った。
 岸の一同は、期せずして、
「万歳!」
 と、叫んだ。
 船の上の漁夫たちは、槇子と『恋人』の手をつかんで船にひきあげた。
 キャラコさんは足がガクガクして立っていられなくなって、そこへしゃがみ込んでしまった。そして、はじめて涙を流した。

 望遠鏡で熱心に漁船の中をのぞき込んでいた山田氏がワニ君にたずねた。
「あの人は誰だか、知っていますか」
「ホテルに泊っている山本というひとです」
 これをきくと、山田氏が飛び上った。そして、呻くようにいった。
「やはり、そうだった。……あれは、ジョージ・ヤマだぜ。君、知ってたかね?」
 こんどは、ワニ君が飛び上った。
「ジョージ・ヤマ!……亜米利加《アメリカ》で成功した千万長者!……小供の時に、新聞で評伝を読んだことがあります。しかし、ずいぶん昔のことですよ」
「そう。……すべての事業から手をひいて欧州へ行ってしまったのは、ざっと十五年ほど前のことだ
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