。それ以来、すこしも評判を聞かぬようになったが、欧羅巴《ヨーロッパ》で生きていることだけはたしかだった。時々、自分の名で思い切った寄附をするのでね。……これは意外だ! ジョージ・ヤマが伊豆にいるとは!」

     七
 キャラコさんは、つぎの朝まで槇子の枕元を離れなかった。
 虚栄と冷淡と利己心のかたまりのような沼間夫人も、この出来事にはさすがにたましいをひっくりかえされたと見え、甲斐がいしく槇子の汗を拭いてやったり、布団の裾をおさえたり、よのつねの母らしいそぶりをみせるのだった。
 麻耶子は高い窓枠に腰をかけ、心配そうに唇をへの字に曲げながら足をブランブランさせていた。今日ばかりは、さすがに意地悪をしなかった。
 沼間夫人がなにかいいつけると、
「ハイ」
 と、兵隊のような返事をして駆け出すのだった。
 槇子はおどろくほど沢山水を飲み、そのうえ、冷たい水の中に長い間つかっていたので、岸にあげられた時はもう瀕死の状態だった。『恋人』の行きつくのがもう十分もおそかったら、槇子はもうこの世のものではなかったろうということは、誰の眼にも明らかだった。
 漁船の中ですばやく水を吐かせた『恋人』の処置がよかったのと、すぐ医者が駆けつけて熱い辛子《からし》の湿布《しっぷ》をしてくれたので、ようやく命だけはとりとめ、肺炎にもならずにすんだが、ひどい疲労と高熱で意識不明のまま昏々と眠りつづけ、その眠りのうちに、悲しそうに身を※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》きながら、
「秋作さん、秋作さん」
 と、絶えず囈言《うわごと》をいう。すると、そのたびに、沼間夫人はハンカチを絞るほどの涙を流し、
「ゆるしてね、ゆるしてちょうだい」
 と、身も世もないように嘆くのである。
 キャラコさんは槇子がかあいそうで、どうしていいかわからなくなる。
『社交室』でのワニ君たちの話や猪股氏との婚約と、この囈言を思い合わせると、今まで少しも気がつかなかったいろいろ複雑な事情がすこしずつのみこめてくる。
 キャラコさんは、思わず、ためいきをつく。
「マキちゃんは、やっぱり秋作氏を愛していたんだわ」
 秋作氏が『黒いお嬢さん』と二人でこのホテルへやって来てから、急に猪股氏に辛くあたり出したことも、酔って帰って来た夜の食堂での狂態も、さもあるべきいちいちの意味がよくわかる。昨年の秋、秋作氏の
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