コさんは、槇子の意地悪も我儘もみな忘れてしまった。
「どうか、助かってちょうだい」
この瞬間、キャラコさんは、父よりも、母よりも、兄弟よりも、槇子の方が好きだったような気がした。
人々は、埓もなく、
「早く、舟を出せ」
「ホテルのモーター・ボートはどうした」
などと叫びながら、ウロウロと渚を走り廻るばかりで、とっさに、どうしようかんがえも浮んで来ないのだった。
なにしろ、一月のことだから、ホテルのモーター・ボートは格納庫の中に納《しま》われていて、ちょっとやそっとで引きだすわけにはゆかない。この上は漁船を出すよりほかはないので、ホテルの庭番《にわばん》がそっちへ駈けだしていったが、ここからいちばん近い漁師の家まで約十五町もある。
人垣の向うで、何か劇《はげ》しくいいあう声がするので、キャラコさんがそのほうをふり返って見ると、『恋人』が、いま大急ぎで服を脱ごうとしているところだった。ガヤガヤはそれを必死に押し止めようとする人々の声だった。
この荒れ狂う海の中へ、このよぼけた老人が躍り込もうというのは、たしかに、正気の沙汰ではなかった。
息をつめているうちに、『恋人』は素早く服をかなぐり捨て、ひきとめる人々の手をふり切って飛沫《しぶき》をあげて海の中へ躍り込んだが、最初の高波が、『恋人』を岸へ叩きつけてしまった。
岸に立ちならんでいる人々の口から、一斉に、
「ああ」
と、叫びとも呻きともつかぬ声がもれた。
キャラコさんは、思わず両手で顔を蔽ってしまった。
すぐ耳のそばで、
「ああ、頭を出した、頭を出した」
と、いう声がする。
顔をあげて見ると、波にうたれて沈んでしまったと思った『恋人』が、波の下をくぐりくぐり、沈着なようすで沖のほうへ泳いでゆく。
『恋人』の体は、たちまち押し上げられ、押し沈められ、また浮き上がる。揉み立てられ、揺すられ、薙《な》ぎ倒されながら瘠せさらばえた初老のひとが、二十代の青年のような精力と不撓《ふとう》の努力でジリジリと槇子の方へ迫ってゆく。自然の暴威と格闘する最も果敢な人間の姿だった。
しかし、槇子の浮き沈みしているところはまだ遠かった。『恋人』のいるところからまだ三、四町も沖合だった。
早く行き着いてくれ。それにしても、無事に行きつけるであろうか。ひとりとして正視するものもない。
「しッかり、たのむぞオ」
だれ
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