……ねえ、そうなんでしょ?」
「言わなくとも、わかっているだろう。君は、そんな頭の悪いひとじゃ、ないはずだ」
 意外に錆《さび》のある声で、愛一郎がこたえた。美術館で泣きだしたときのかぼそい声とは、似てもつかぬものだった。
「あたしの頭のことは、ほうっておいていいの……ごらんなさい、裸足《はだし》なのよ。こんなかっこうで家から追いだそうって言うの?」
「君の靴とボストン・バッグは、車のうしろの|物入れ《トランク》にはいっている」
「ちょっと伺うけど、きょうにかぎって、どうして、そんなにまで、あたしを追いかえしたいの? 訳があるなら、言ってみて」
 愛一郎は車のうしろへ行くと、物入れの蓋《ふた》をあけて、靴を持って戻ってきた。
「あなたの、お靴」
 カオルは、愛一郎の手を横に払った。靴は愛一郎の手から離れて、草のうえに落ちた。
「あたし、帰るなんて、言ってないわ」
 愛一郎はズボンのうしろへ手をやった。カオルが、おしころしたような声で叫んだ。
「あなたの持っているものは、なに? そんなもので、あたしをおどかそうというの?」
「ぼくは意気地なしなのか? やろうと思ったら、人殺しだってなんだ
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