る。サト子を、愛一郎の愛人だときめかかっているのも、どうかと思うが、慇懃すぎる態度が、だいいち、じれったくてたまらない。むかしなら、我慢していられたが、生きて行くことの心配で気もそぞろで、うちあけ話などを、しんみりと聞いている気持の余裕がない。
「あす、東京へ帰ったら、また、目まぐるしく働かなくてはならない」
 クラブへ顔をだしても、すぐ仕事があるとはかぎらない。そのあいだのいく日を、どうして食いつないで行けばいいのか。
 サト子は、下の谷《やつ》につづく暗い坂道を、あてどもなくブラブラ降りて行ったが、その思いが、苦になって心にのしかかり、足をとめては、ため息をついた。
 石高道《いしだかみち》になったところで、空鳴りのような、もの音を聞いた。せせらぎの音だと思ったら、上の松林を吹きぬけて行く、風の音だった。
「……酔っているのかしら」
 その場かぎりの会話をしたあとの憂鬱《ゆううつ》が、心にまといつき、わけもなく飲んだ白葡萄酒の酔が頭に残って、ときどき、ふっと夢心地になる。
 これが生酔いというものなのか、気持の張りがなくなって、生きていくことのむずかしさが、つくづくと身にしみる。

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