に、きょう美術館で会おうなどとは、夢にも思っていなかった。嘘もカクシもない、ギリギリの真実だが、そんなことを言ってみたところで、通じる話ではなかった。
 サト子は叱られた子供のように目を伏せた。
「あたしに、なにかご用なの?」
 聞えたのか聞えなかったのか、中村は、みょうな咳ばらいをして、
「外へ出ましょうや。いずれにしても、たいしたことじゃ、ありませんから」
 と、ささやき、婆やに、さりげない挨拶をして、サト子を庭先へ連れだした。
 荒れた花壇の縁石《へりいし》のそばで足をとめると、中村は、雲籠《くもご》りの淡い月の光を浴びながら、ひきしまった威のある顔をこちらへむけた。
「飯島の砲台トンネルの下に、洞穴がありますが、ごぞんじですか」
 サト子は、すなおに、うなずいた。
「子供のころ、泳いで、あのなかへはいったもんだわ」
「そんな古い話じゃないんですよ」
 中村は、ポケットから、水着用の、ナイロンのネッカチーフをだしてみせた。
「これに、おぼえがありますか」
 サト子は、はっと息をのんだ。
「それ、あたしのよ……あのなかへ落したんだわ。悪いことって、できないものね」
 サト子の言いか
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