とも言わずにおいた。秋川との約束は果したのだから、もうこのへんで会話をうち切ってもいいわけだ。サト子は、間のびのした声でたずねた。
「それで、あたしに、どうしてくれとおっしゃるの?」
「これっきり、というのではなく、東京へお帰りになってから、いちどだけでもよろしいから、父のところへ遊びに行ってやってください」
サト子は、うるさいクドキの場から解放されたい一心で、あっさりとうけあった。
「そんなことなら、おやすいご用だわ。お望みのように、してあげてよ」
サト子が玄関へはいろうとすると、紺サージの背広を重っ苦しく着こんだ中村吉右衛門が、脇間の薄暗いところで婆やとなにか話していたが、サト子のほうへ振り返って、
「こんばんは」
と低い声で挨拶した。
警察や中村がどう思おうと、意識して愛一郎をかばったおぼえはない。きのうまでは、なにを言われても平気だったが、空巣だと思われている当の青年の家で、捜査課の係官と顔をあわせるのは、さすがに、気が重かった。
「あなたでしたのね。けさほどは……」
美術館を出たときから気にやんでいた、嫌な瞬間がやってきた。
飯島の澗の海で溺れたはずのそのひと
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