とも言わずにおいた。秋川との約束は果したのだから、もうこのへんで会話をうち切ってもいいわけだ。サト子は、間のびのした声でたずねた。
「それで、あたしに、どうしてくれとおっしゃるの?」
「これっきり、というのではなく、東京へお帰りになってから、いちどだけでもよろしいから、父のところへ遊びに行ってやってください」
 サト子は、うるさいクドキの場から解放されたい一心で、あっさりとうけあった。
「そんなことなら、おやすいご用だわ。お望みのように、してあげてよ」


 サト子が玄関へはいろうとすると、紺サージの背広を重っ苦しく着こんだ中村吉右衛門が、脇間の薄暗いところで婆やとなにか話していたが、サト子のほうへ振り返って、
「こんばんは」
 と低い声で挨拶した。
 警察や中村がどう思おうと、意識して愛一郎をかばったおぼえはない。きのうまでは、なにを言われても平気だったが、空巣だと思われている当の青年の家で、捜査課の係官と顔をあわせるのは、さすがに、気が重かった。
「あなたでしたのね。けさほどは……」
 美術館を出たときから気にやんでいた、嫌な瞬間がやってきた。
 飯島の澗の海で溺れたはずのそのひと
前へ 次へ
全278ページ中91ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング