せに、わざとわからないふりをしていらっしゃる。ごいっしょに夕食をしなかったのは、父が、あなたとふたりきりになりたがっていたので、望むようにしてやりたかったからです……それで、父はなにをお話ししたんでしょう?」
「いろいろなことを」
「父が、あなたを好きだということも?」
このひとたちの生活には、愛しているだの、好きだのということのほか、話題がないみたいだ。
「お返事のないところをみると、父は切りだせなかったのでしょう……ねえ、聞いてください。父は、頭のなかがひっくりかえるほど、あなたに夢中になっているんですよ」
「うれしいみたいな話ね……でも、それは、あなたの想像でしょう? パパが、あなたに、そんなことを言うわけはないから」
「母が亡くなってから、ぼくたちは、仲のいい友達のようにやってきました……父が、なにを考えているか、どうしたいと思っているか、目の色からだって、ぼくには、わかるんです……美術館のテラスであなたと話している間じゅう、父は、食いつきたいとでもいうようにあなたの顔を見詰めていました……なにか言いながら、無意識にあなたの手にさわって、気がついて真っ赤になった……名刺をさし
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