なかにはいると、愛一郎は、もの憂い目の色で、こちらへ振り返った。サト子は椅子に掛けながら、いきなりに切りだした。
「聞きたいことがあるのよ……泳いで行って、声をかけたとき、あなた、あのなかにいたんでしょう。なぜ、返事してくれなかったの?」
「ぼく、気が変になって、あそこで死ぬつもりだったんです」
そう言いながら、サト子の顔を見返した。びっくりするような美しい目の色だった。
「満潮になるのを待っているうちに、どんどん潮がひいて、夜があけるころには、いちばん低い岩まで出てしまいました」
サト子は、遠慮のない声で笑った。
「よかったわね」
「お礼をいいたいと思って、お寝間の窓の下に、しばらく立っていましたが……」
「そのとき、あたし、なにをしていた?」
「泣いていらしたのでは、なかったのでしょうか……それで、声をかけそびれて……」
「すんだことは、いいわ。それより、あなたに言っておかなければならないことがあるの……さっき美術館を出るとき、捜査課のひとに見られてしまったのよ。あんな騒ぎをしておきながら、平気で出歩くひとも、ないもんだわ」
美しかった目の色が消え、愛一郎の瞳が、落着きなくウ
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