ロウロしだした。
「ぼく、罰を受けるようなことは、なにもしていません」
「あなた、警察へ行ってもそんなことをいうつもり?」
「もちろん、そう言ってやります」
「警察じゃ、さぞ、笑うこってしょう……悪いことをしたという自覚がなかったら、溺れるまねをしたり、洞の奥に隠れこんだりすることは、いらないわけだから」
愛一郎は、顔をあげると、抗議するような調子で言いかえした。
「でも、この世には、殺されたって、言えないようなことだって、あるでしょう……逃げ隠れしたからって、そんなふうに、かたづけてしまわれるのは、つらいな」
二十時の国電の上りが、山々に警笛の音をこだまさせながら、亀《かめ》ヶ|谷《やつ》のトンネルにつづく切取の間へ走りこんで行く。サト子の心は、一挙に東京に飛び帰り、あすからはじまる生きるための手段を、あれこれと考えながら、気のない調子でつぶやいた。
「なにを犠牲にしても、まもらなければならない名誉ってものも、あるんでしょうね……あたしには、わからないことらしいから、この話は、やめましょう。そろそろ失礼するわ」
愛一郎は、いつかの熱にうかされたような目つきになって、膝のうえにあ
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