ひきとめするわけにはいかないが、よかったら、お泊まりください。そのつもりで、支度させてありますから……じつは、愛一郎のことなのですが、私は、イキな父親になりたいとも思わないが、子供がなにをしているのか知らないような、おろかな父親にもなりたくない」
 そう言うと、なんともつかぬ微笑をしてみせた。美術館で、遠くから愛一郎のほうを、じっと見ていた、憂いにみちたあのときの顔だった。
「愛一郎は、臆病なくらい内気で、物事に熱中したりしないやつでしたが、このごろ、たれの手紙を待っているのか、毎朝、門に出て、郵便受の前で張番をするようなことまでします」
 美術館のティ・ルームでお茶を飲んでいるときに、もう、このキザシは見えていた。愛一郎の父は、サト子が愛一郎の愛人だと思いこみ、あくまでも調停の役をつとめようというのらしい。
「よく眠れないようだし、日ましに痩《や》せて行くのが見える……なにか、はじまっているのだろうとは、察していましたが、きょう、美術館で、あれのすることを見て、はじめて得心がいったわけです」
 サト子は、言うことがなくなって、だまってコォフィを飲んでいた。
「一週間ほど前、愛一郎は、
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