隙《すき》のない顔になって、
「でも、きょう、重大な用談があって、いらしたんでしょう?」
「用なんか、ないのよ。なんということもなく、ちょっとお寄りしただけ……」
 カオルは、せんさくする目つきで、サト子の顔色をさぐりながら、
「あたしに、そんな挨拶をなさるのは、ムダよ。苗木のウラニウム鉱山の話なら、よく知ってるから……四日ほど前、パーマーや芳夫なんかといっしょに、熱海ホテルで、叔母さまにお逢いしたわ。坂田省吾という青年にも……」
 坂田省吾というのは、荻窪や阿佐ヶ谷のへんを清浄野菜を売って歩く、色の黒い朴訥《ぼくとつ》な青年で、去年の夏ごろからの馴染みだった。忘れたころに不意にやってきて、サト子が借りている植木屋の離家の前で牛車をとめ、縁に掛けて、半日ぐらいも話しこんでいく。
 カオルが熱海で叔母に逢ったのは、ふしぎはないが、木の根っ子のようなモッサリした坂田青年が、熱海ホテルなどにあらわれるとは、考えられもしないことだった。
「坂田省吾って、青梅《おうめ》の奥で清浄野菜をやっている、あの坂田省吾のことかしら」
「ええ、そうよ。苗木の谷の鉱業権を買ったという、坂田省吾のことよ。きょう
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