がうみたいだね……ともかく、ママのものにさわらないように、言ってきます」
「言いたいなら、言ってもいいが、乱暴な言葉をつかわないで、やさしく言いなさい」
 愛一郎は、家のなかに駆けこんで行った。
 愛一郎の父は、玄関のわき間を通って、客間らしい部屋へサト子を案内すると、
「けさ、亡妻の七回忌をやったままなので、失礼して、ちょっと着かえてきます」
 そう言って、部屋から出て行った。
 ひととき、百舌《もず》が鳴きやむと、山の深いしずけさが、かえってくる。
 黒樫《くろかし》の腰板をまわした、天井の高い客間の南側は、いちめんにガラス扉で、そこから谷を見おろす、ひろびろとした芝生の庭に出られる。芝生の端は、松林で区切られ、しゃれた囲いをつけた、西洋風の四阿《あずまや》が建っていた。
「やはり、来るんじゃ、なかった」
 サト子はソファに沈みこんで、あてどもなく芝生の庭をながめているうちに、うかうかとこの家へやって来たことを、悔みだした。
 愛一郎の父が、扇ヶ谷の家へと言ったのは、苦境から救いだすための臨機の弁で、ほんとうは、来てもらいたいのではなかった。それに、きょうは間の悪い折だったらしい。
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