へはいりこんだにしては度胸がなさすぎる。サト子は、靴の先で、すこし強く、愛一郎の脛にさわってやった。
「足があたったわ。ごめんなさい、痛かったでしょう」
「いいえ」
こちらの意志が通じたらしい。のぼせあがったような目の色が、それで、いくぶん落着いた。
父が息子にたずねた。
「なにを、いうつもりだった?」
「こんなところで、お名前を伺ったりするのは、失礼だから……」
やれやれ、どうにか切りぬけたらしい。
「失礼だったかな」
父親は、わからぬなりに笑顔になって、サト子のほうへ向きをかえ、
「あなたは、あそこに並べてあるようなものを、よほどお好きとみえますな……この展覧会で、きょうで三度、お目にかかっているわけですが……」
そういうと、名刺をだして、テーブルのうえにおいた。
「これが、お名前を伺うなといいますから、伺わずにおきますが、お近づきのしるしまでに、名刺をさしあげておきます」
秋川良作……東京の住所と番地が、小さな活字で片付けてある。
「東京へお帰りになったら、いちどお出掛けください。ガラクタも、いくらかは集めてありますから」
このへんが、潮どきだ。カウンターのうえの時
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