白と赤の蓮《はす》が咲いていたころのことを、ごぞんじでしょうな」
「知っています」
「この池も、むかしは美しかったが、杉苔がふえて、池つづきのようになってしまった」
 のどかな話しぶりから推すと、愛一郎の父は、一週間ほど前、飯島の澗の海のほとりで、息子がえらい騒ぎをやったことを、なにも知らないらしい。
「むかしの鎌倉はよかったが、戦後は、ようすが変って、なじみのうすい土地になってしまいました……私も、扇《おおぎ》ヶ|谷《やつ》に家をもっていますが、留守番をひとりだけおいて、荒れるままにほうってある。まいとし、秋、これとふたりで、亡妻の墓参りに来るくらいのもので……それで、いまお住いになっている飯島のお宅は?」
「叔母の家ですの……由良と申します」
「……失礼ですが、あなたさまは?」
「パパ、ちょっと……」
 哀願するように、愛一郎が父に呼びかけた。
 詰りきった表情をし、興奮して肩で大きな息をついている。叔母の家の縁端で、三人の警官に追いつめられたときのあの顔だった。
 愛一郎という青年は、これほどの緊張にも耐えられなくて、なにもかも、父に告白する気でいるらしい。空巣のように、他人の家
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