、どの家も、奥までひと目に見とおされる。縁台でゆったりと団扇《うちわ》をつかっているこのひとたちは、暗い洞の奥で死にかけている青年と、なんの関係もないのだと思うと、なにか、はかない気がする。
 海沿いの暗い道をタクシで飛ばし、そのうえで、なにをしようというのか。
 洞の奥に、大震災のときに落盤したという、満潮の水のさわらない岩棚《いわだな》が一カ所ある。サト子が望んでいるのは、あの青年を岩棚のむこうの砂場へ連れこみ、潮がひいて、あすの朝、洞の口がまた水の上にあらわれ出るまで、赤ん坊のように抱いていてやりたいということらしかった。
「あたしにだって母親の素質があるんだろうから、こんなことを考えたって、おかしいことはない」
 タクシが門の前でとまった。車を帰して、家のなかに駆けこむと、広縁から庭先へ出てみた。
 集魚灯をつけた漁船は、まだ、あきらめずにやっている。漁師と若い警官のすがたは見えず、中年の私服が、ひとりだけ船にいた。
 戸締りしたところを、のこらずあけはなすと、サト子は、ラジオのスイッチをひねった。
「フニクリ・フニクラ」という、どこかの国の陽気な民謡が、割れっかえるような音で
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