なかで溺れてしまう青年がいる。
サト子は、時計を見あげた。
八時半。ぞっと鳥膚がたった。
「つかまるくらいなら、死んでしまう」と、あの青年は言った。
言葉のカザリのようではなかった。あんな深い目つきをしてみせる青年なら、言ったとおりのことをするのだろう。
サト子は、パチンコ屋をとびだすと、駅口でタクシをひろった。
「飯島まで……急いで」
緑色の小型のタクシは、一ノ鳥居をくぐり、海岸に近い通りを走って行く。
脇窓《わきまど》から、月の光にきらめく海が見える。その海は砲台下の錆銀色の澗につづいている。
今日の今日くらい、人間の生死の問題が、身を切るような辛さで迫ってきたことはまだなかった。
「すっ飛べ」
心のなかで叫びながら、サト子は目をつぶる。
一秒一秒が、光の尾をひきながら流れ去るような思いがしていたが、現実は、やっと海岸橋を渡ったところだった。
「ねえ、急いでくれない」
運転手は、前窓を見つめながら、たずねた。
「なにか、あったんですか」
「いま、子供が生れるというさわぎ」
それで、グンとスピードが出る。
町並みの家々では、あけはなしたまま戸外で涼んでいるので
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