た。顔じゅうの紐《ひも》をといて、あけっぱなしで笑っているのがその証拠だが、このポスターは、いまでは見たくないものの一つだ。東京では、とうのむかしに死に絶えてしまったのに、生きのびて、こんなところで待ち伏せしていようとは、思いもしなかった。
 広場をわたりかえして、駅の前のパチンコ屋へ行く。
 暑いので、押しあうほどには混んでいない。
 はじけかえる金属の摩擦音と、気ぜわしいベルの音。うだるような暑気に耐えながら、玉受けの穴から機械的に玉を送りこんでいると、徴用されて、名古屋のボール・ベアリングの工場で玉を磨いていた、情けない夏の間の記憶が、指先によみがえってくる。
 むこうの台で、漁師らしいのが、大きな声で話をしている。
「古女房の初っ子で、それが難産というんじゃ、おめえも楽じゃねえな」
「今夜の、潮いっぱいは、宵の五ツ半か」
 時計を見あげているような、短い間があってから、長いため息がきこえた。
「あと三十分ってところが、ヤマだ。やりきれねえや」
 鎌倉の漁師は、満潮のことを「潮いっぱい」という。月の引く潮のいきおいで、赤ん坊を産もうとしている女房がいる。満潮になれば、洞《ほら》の
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