かったので、サト子は気《け》おされて、
「いいえ」
とだけ、こたえた。秋川は眉をひらいた明るい顔になって、
「あなたほどの聡明な方が、わけのわからない契約書に署名するような、いいかげんなことをなさるはずがないから」
「おほめにあずかって恐縮ですけど、気分まかせってとこで、深く考えてやったことじゃ、ないんです。ただ、なんとなく気がむかなかったから……あたしには、そんなとき、それはまちがいだと、教えてくれるような友達もないんです」
「そうとは限らない。あなたのために、よかれと骨を折っているひとも、あるかもしれませんよ」
サト子は秋川の顔を見た。秋川は笑いながら首を振った。
「私ではありません」
「中村さんですの?」
「中村君も、そのひとりだが、中村君ともちがいます」
「その神さまみたいなひと、どこに隠れているんでしょう? 中村さんなんかの口だと、あたしはいま、なにかたいへんなことになっているらしいのですけど、こんなときに飛びだしてきてくれるんでなくっちゃ、なんにもなりませんわね」
「出てきても来なくとも、やるだけのことはやっています……ともかく、外地に行く契約に、サインをしなかったのは
前へ
次へ
全278ページ中228ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング