から、サト子の立場は、いっそう辛《つら》いものになった。
 漁師たちが錨繩をひきあげようとすると、潮道を見ていた私服が、
「じゃ、おれがやってみる」
 と、上着をぬいで、じぶんでやりだした。
 月の光のなかでは、人間も、自然も、やさしげに見えるのだろうか。庭先で、あんなエグイ顔をしていた警官たちは、忍耐強い父親のような思いの深いようすになり、是が非でもチンピラの死体をひきあげようと、なりふりかまわず、うちこんでいる。
 サト子は、得態の知れない感動で胸をしめつけられ、
「あのひとは、そこの洞のなかにいます」
 と、いくども叫びだしそうになった。
 むだな骨折りをしている警官たちが、気の毒でならない。いまとなっては、空巣なんかに同情する気は、みじんもないが、といって、そこまでのことは、しかねた。
「見ちゃ、いられない」
 サト子は、芝生から立ちあがると、身を隠そうとでもするように、家のなかに駆けこんだ。
 サト子は、でたらめな鼻唄をうたいながら、行きどころのないタマシイのように家のなかを彷徨《さまよ》い歩いていたが、どの部屋へ行っても、集魚灯をつけた底引の漁船が、目の下に見える。崖端へ走
前へ 次へ
全278ページ中19ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング