たに可笑《おかし》みを感じたのか、中村は、よく響く声で、ははは、と笑った。
「あっさり返事をしてくれたので、話がしやすくなった」
 いままでの、いかつい調子がなくなり、からだのこなしが、やさしくなった。中村が葎《むぐら》をおしまげて腰をおろすと、サト子は、あわてて、そのそばへ、しゃがみこんだ。
「ねえ、聞いて、ちょうだい……あたし、あなたに、申訳ないことをしたと思っているのよ」
 われともなく、サト子は中村の腕に手をかけた。罪のおそれ、というのではない。是が非でも愛一郎の死体をあげようと、ひとり漁船に残って、夜ふけまで錨繩《いかりなわ》をひいていた、真実あふるるごとき所為を思うと、じぶんのしたことなどは、薄っぺらで、目もあてられないような気持がしてきたので、きょうまでのことを、のこらず中村に話した。
「それで、そのとき?」
「洞の奥へはいったとき、愛一郎は、いなかったのよ。それは真実なの」
 月に向かっているせいで、みょうに白っぽく見える中村の顔が、親しみのある微笑をうかべた。
「ここは法廷じゃないから、真実などという、むずかしい言葉をつかわなくとも、結構ですよ」
「きょう、偶然、あの人たちに会って、誘われてここへ来たというのは、絶対にうそじゃないの……それで、あたし、どうなるのかしら?」
「あなたが、心配なさることはなにもない。あの事件にしても、たいして重く見ているわけじゃありません……ただ、秋川さんのご子息があの家へはいりこんだとき、女中が騒いだもんだから、近所がみな出てきた。そのなかに、ご子息の顔を見たものも、いるわけで……」
「そんなら、あのひとを呼び出せばよかった。あたしに、そんなことをおっしゃるのは、なぜなの?」
「秋川さんのご子息が、モノを取る目的で空巣にはいったとは、思えない。秋川氏は、知名人士のなかでも高潔な方だし、子息のほうにも、悪いうわさはない……たぶん、なにか、わけがあったのでしょう。あす、軽い気持で署へ来て、事情を話してもらえば、それで事はすむのです。当人に、堅い話をするより、あなたなら、やさしく話しても、了解してもらえそうだったから……災難だと思って、あす、あなたもいっしょに……」
 サト子は、きっぱりとこたえた。
「かならず、行かせるようにします。あのひとのためにも、そのほうがいいのでしょうから」
 秋川は、久慈という家で美しい娘を見たと言っていた。サト子は思いついて、その話をしてみた。
「久慈さんってお宅に、きれいなお嬢さまがいらっしゃるのよ。ごぞんじ?」
「そう、きれいな方がいられたようだ」
「あたしの想像だけど、愛一郎、なぜ、あの家へはいりこんだのか、わかるみたいね」
 中村は考えてから、同意するようにうなずいた。
「ひょっとすると、そういうことだったのかもしれない。それにしては、思いきったことをやるもんだ。このごろの若い連中の性情は、われわれには、わからなくなりかけているらしい」
「かりに、そうだとすると、警察へ行って、愛していたの、好きだったのと、そんな話まで、しなくてはならないんですの」
「なんであろうと、隠すのはためにならない……正午までは、支局の連中や通信員がウロウロしていますから、一時から二時くらいまでの間に、捜査主任のところへ……」
 玄関の横手の車庫から、愛一郎と山岸カオルの乗った車が走りだし、飛ぶように前の坂道を下って行った。
 中村は、じっと車のあとを見送ってから、
「逃がしたんじゃ、ないだろうね」
 と、強い目つきで、サト子のほうへ振り返った。
「どうか、そんなことにならないように……むずかしくなるよ」
 サト子は腹をたてて、やりかえした。
「それほど、バカではないつもりよ」
「愛一郎のとなりにいた女性は、新兵器の売込みをしたり、日本のウラニウム鉱山の調査をしたりしている、パーマーというドイツ人の秘書だが、あなた、ご昵懇《じっこん》なんですか」
 ウラニウムの話が出たのは、きょう、これで二度目だ。サト子は、ぼんやりと、こたえた。
「知っているけど、昵懇というほどでもないの」
「今夜は、あなたの言うことを、信用しておきましょう」
 中村は、おやすみと挨拶して、いま、車がうねり下ったばかりの道を、ひとりでポクポク降りて行った。

  暗い谷間

 西側へ、翼のように張りだしたところに、客間の明るい灯が見える。午後、カオルとふたりではいりこんだ、亡くなった秋川夫人の部屋の窓々が、斜め上のあたりに、薄月の光をうけて、ほの白く光っている。
 中村との話合いは、思いのほか軽くすんだが、秋川の待っている客間へ、すぐ戻って行く気にはなれなかった。
 貧乏の鋭いキッサキと、毎日、火花を散らして、わたりあって行かなければならない、切羽詰った目で見ると、秋川の生活は、のどかすぎて間がぬけてい
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