る。サト子を、愛一郎の愛人だときめかかっているのも、どうかと思うが、慇懃すぎる態度が、だいいち、じれったくてたまらない。むかしなら、我慢していられたが、生きて行くことの心配で気もそぞろで、うちあけ話などを、しんみりと聞いている気持の余裕がない。
「あす、東京へ帰ったら、また、目まぐるしく働かなくてはならない」
 クラブへ顔をだしても、すぐ仕事があるとはかぎらない。そのあいだのいく日を、どうして食いつないで行けばいいのか。
 サト子は、下の谷《やつ》につづく暗い坂道を、あてどもなくブラブラ降りて行ったが、その思いが、苦になって心にのしかかり、足をとめては、ため息をついた。
 石高道《いしだかみち》になったところで、空鳴りのような、もの音を聞いた。せせらぎの音だと思ったら、上の松林を吹きぬけて行く、風の音だった。
「……酔っているのかしら」
 その場かぎりの会話をしたあとの憂鬱《ゆううつ》が、心にまといつき、わけもなく飲んだ白葡萄酒の酔が頭に残って、ときどき、ふっと夢心地になる。
 これが生酔いというものなのか、気持の張りがなくなって、生きていくことのむずかしさが、つくづくと身にしみる。
 ファッション・モデルという職業も、好きではない。この仕事に適しているとも、考えていない。期待も、希望もない。食べるだけのために、行きあたりばったりに、漂い流れている感じ……頭のなかがいそがしくて、ひとを愛している暇もない。愛されたいとも、思っていない。
 モデルのクラブでは、気位いの高い、むずかしいやつだと思われているらしい。こんないい加減な生活をつづけていると、いまに、夢も希望もなくなり、ひねくれた、意地の悪いオールドミスになるだろう。
 カーヴになったところを曲がると、愛一郎とカオルが乗って出た車が、国道から逸《そ》れた袋のような谷の奥の崖に、のしあげるようなかっこうで止っていた。
 松林を吹きぬける風の音だと思ったのは、車が走りこんできた音だったらしい。なにがあったのか、ルーム・ランプをつけっぱなしにしたまま、車のそばで言いあいをしているのが、目の下に見える。
「ドライヴだなんて連れだして、東京へ追いかえすつもりだったのね」
 カオルが癇《かん》をたてた声で、愛一郎に毒づいている。愛一郎は、車のボンネットに肘《ひじ》をつき、そっぽをむいたまま返事もしない。
「返事ぐらいなさいよ……ねえ、そうなんでしょ?」
「言わなくとも、わかっているだろう。君は、そんな頭の悪いひとじゃ、ないはずだ」
 意外に錆《さび》のある声で、愛一郎がこたえた。美術館で泣きだしたときのかぼそい声とは、似てもつかぬものだった。
「あたしの頭のことは、ほうっておいていいの……ごらんなさい、裸足《はだし》なのよ。こんなかっこうで家から追いだそうって言うの?」
「君の靴とボストン・バッグは、車のうしろの|物入れ《トランク》にはいっている」
「ちょっと伺うけど、きょうにかぎって、どうして、そんなにまで、あたしを追いかえしたいの? 訳があるなら、言ってみて」
 愛一郎は車のうしろへ行くと、物入れの蓋《ふた》をあけて、靴を持って戻ってきた。
「あなたの、お靴」
 カオルは、愛一郎の手を横に払った。靴は愛一郎の手から離れて、草のうえに落ちた。
「あたし、帰るなんて、言ってないわ」
 愛一郎はズボンのうしろへ手をやった。カオルが、おしころしたような声で叫んだ。
「あなたの持っているものは、なに? そんなもので、あたしをおどかそうというの?」
「ぼくは意気地なしなのか? やろうと思ったら、人殺しだってなんだって、やれるんだぞ」
 愛一郎は、下草のなかにしゃがみこむと、夜目にもそれとわかる飛びだしナイフで、萱《かや》のしげみをめちゃめちゃに切りまくった。
「気ちがい! あなた、ポン中なのね」
 愛一郎はナイフをポケットにおさめると、息をきりながら、やりかえした。
「気ちがいってのは、君のことだ。ゆうべも、夜中じゅう、裸足で家のなかを歩きまわっていたね……ママの部屋へはいって、なにをしようというんだ。言うことがあるなら、言ってみろ」
「あなたの言いかたは、あたしがなにをしたか、知っているという言いかたよ」
「ぼくが知っているのは、神月となにかコソコソやっているということだ、君は、たれかの持物になっているウラニウム鉱山を、ひったくりに来ている、パーマーというナチの手先なんだってね。君とパーマーと神月が、帝国ホテルのロビイで、話しているのを、この間、ぼくは見た」
 カオルは、たばこに火をつけると、長い煙をふきだしながら、うたうような調子で、言った。
「あんたのような子供に、なにが、わかるというの」
「ぼくに、ものを言うなら、もうすこし、丁寧に言え……君はパパと結婚したがっているが、万一、そんなこ
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