おいた。
「どうしたのよ、カオルさん……ねえ、どうしたの」
 カオルは頭をあげると、心の芯《しん》が抜けたような顔でニヤリと笑った。
「……あたし、長いあいだ秋川の細君の亡霊と格闘していたのよ……この家へ来るのは、そいつと喧嘩するためだったの。七年も八年も、死んだひとのことばかり思いつめているなんて、なんのことでしょう? 生きて動く女が、ここにひとりいるのに、秋川ったら、振り返って見ようともしないのよ……細君が死ぬまで貞潔だったと信じこんでいることも、あたしには面白くないの……北鎌倉や扇ヶ谷のひとたちだって、神月の別荘へやってきたことがあるんだから」
 愛一郎が、ただの空巣でなかったことは、サト子にもわかっていた。愛一郎が久慈という家の留守にはいりこんだのは、神月か、愛一郎の死んだ母に関係のあることではなかったのか。
「飯島の久慈さんっていう家、ごぞんじ?」
「久慈って、神月の別荘のあとへはいったひとでしょう。それが、どうしたというの?」
 深入りしそうになったので、サト子は、あわててハグラかしにかかった。
「それにしても、古い話だわねえ……神月さん、いま、なにをしていらっしゃるのかしら?」
「ずいぶん年をとったけど、むかしどおりの粋人《キャラント》よ……追放解除になったあと、することがないもんだから、渋谷の松濤《しょうとう》の大きな邸《やしき》でショボンとしているわ。秋川が、毎月、生活費を送っているの」
「秋川さん、神月と親戚なの?」
 カオルは、底意のある皮肉めかした口調で、
「親戚?……ふふ、ある意味ではね……細君が死んでから、秋川は事業から手をひいてしまったけど、手元に動かせる金を持っていることでは、日本一でしょう。神月としては、秋川の友情にたよるほか、生きる道はないんだから、どうされたって、離れないつもりでいるらしいわ」
 サト子が階下《した》の客間へ戻ると、カオルもついてきて、向きあうソファにおさまった。
 近くの山隈《やまくま》で、うるさいほど小寿鶏《こじゅけい》が鳴く。風が出て雲が流れ、部屋のなかが、急にたそがれてきた。美術館を出るとき、鎌倉署の中村に顔を見られたことを、ひと言、愛一郎に注意してやりたかったが、そうしてみたって、どうなるものでもなかった。
「あたし、おいとましようかな。いずれお伺いしますから、そのとき、またゆっくり……」
 カオルは、隙《すき》のない顔になって、
「でも、きょう、重大な用談があって、いらしたんでしょう?」
「用なんか、ないのよ。なんということもなく、ちょっとお寄りしただけ……」
 カオルは、せんさくする目つきで、サト子の顔色をさぐりながら、
「あたしに、そんな挨拶をなさるのは、ムダよ。苗木のウラニウム鉱山の話なら、よく知ってるから……四日ほど前、パーマーや芳夫なんかといっしょに、熱海ホテルで、叔母さまにお逢いしたわ。坂田省吾という青年にも……」
 坂田省吾というのは、荻窪や阿佐ヶ谷のへんを清浄野菜を売って歩く、色の黒い朴訥《ぼくとつ》な青年で、去年の夏ごろからの馴染みだった。忘れたころに不意にやってきて、サト子が借りている植木屋の離家の前で牛車をとめ、縁に掛けて、半日ぐらいも話しこんでいく。
 カオルが熱海で叔母に逢ったのは、ふしぎはないが、木の根っ子のようなモッサリした坂田青年が、熱海ホテルなどにあらわれるとは、考えられもしないことだった。
「坂田省吾って、青梅《おうめ》の奥で清浄野菜をやっている、あの坂田省吾のことかしら」
「ええ、そうよ。苗木の谷の鉱業権を買ったという、坂田省吾のことよ。きょう、あなたがいらしたのも、ウラニウムのことなんでしょう?」
「ウラニウムって、なんのことなの」
「秋川のところへ、話を持ちこむのは、賢明よ。十三億という金を、右から左へ動かせるのは、いまのところ、秋川ぐらいのもんだから」
 奥につづくドアから、秋川がはいってきた。
「無人《ぶにん》の家で、ろくな、おもてなしもできませんが、どうか、夕食を……カオルさんも」
 カオルは、すらりとソファから立って、
「あたし、失礼するわ。年忌《ねんき》のお斎《とき》なんか、まっぴらよ」
 そう言うと、足でドアをあけて、あとも閉めずに部屋から出て行った。

  間違いつづき

 留守居を置いてあるだけ、と言っていた。材料持ちで、ホテルからでもコックを呼んで支度をさせたのだろうか。明るい吊灯《つりとう》の下の食卓にならんだ酒瓶や料理の数々は、簡単なものではなかった。
 食べものは、食後の菓子まで食卓に出そろっている。たがいに給仕をしながら、やる式らしいが、食器はふたりの分しかなかった。
「愛一郎さんは?」
「愛一郎は、失礼するということでした……一週間ほど前から、みょうに元気がなくなって、食べたがらないで、困りま
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