す」
 秋川は、詫びるようにいいながら、サト子のワイン・グラスに、あざやかな手つきで白葡萄酒をついだ。
「暮れかけると、肌寒くなりますね。まあ、すこし、めしあがれ」
 デザートのマロン・グラッセをつまみながら、サト子は、白葡萄酒を、ひと口、飲んでみた。栗の味と葡萄酒の味がモツレあって、口のなかが夢のように楽しい。
「おいしいわ」
 秋川は、すらりと瓶をとりあげた。
「よかったら、どうぞ……」
 たのしみは一度だけということはない。それに、観光季節に八幡宮の参道をうろつく、ショウバイニンのひとりだと思われているのだ。いまさら気取ってみたってしようがない。
「いただくわ」
 胃袋が暖まり、なんとなく気宇が大きくなる。中村という私服が、間もなく呼鈴を押しに来るのだろうと心配していたが、それも、さほど気にかからなくなった。
 秋川は、ほどのいい間合《まあい》で、ゆったりとグラスを口にはこんでいる。それを見ていると、急にお腹がすいてきた。
 東京へ帰るつもりで、昼前に叔母の家を出たが、秋川たちと美術館のティ・ルームで、お茶を飲んだきり、朝からなにも食べていない。
 サト子は、鶏の手羽のホワイトソースを大皿からとって、秋川の皿にサーヴすると、いちだんと大きなのを、自分の皿へ取りこんだ。
「はじめても、よろしいの?」
 秋川は、慇懃《いんぎん》にうなずくと、思いをこめたような調子で、つぶやいた。
「この家で、こんな楽しい夕食をするのは、ひさしぶりです。あなたのような方が居てくださるのだったら、好きでもない東京に、住むことはないのですが……」
 なにを言いだす気なのだろうと、サト子は、フォークの手を休め、秋川の顔を見た。
 食事がすむと、折りかがみのいい四十五六の婆やが、ものしずかに食堂へはいってきた。
「お客間に、コォフィをお出ししてございます」
 サト子をうながして、つづきの客間に移ると、秋川はコォフィをすすめ、椅子をひっぱってきて、サト子と膝が触れあう位置に掛けた。
「こんなところへお誘いしたのは、ゆっくりお話をしたかったからで……」
 カオルの話では、事業から手をひいているが、たいへんな金持ちで、七年も前に死んだ夫人の追憶にひたりこみ、この世の女には目もくれない変人、ということになっていた。
 美術館のティ・ルームで見たときの第一印象は、大学の先生か、信仰のあついクリスチャンといった、心配のない堅苦しいタイプだと思っていたが、あらためて見なおすと、目もとにシットリとうるみがつき、頬のあたりが赤らんで、意外になまめいた顔になっていた。
「おやおや、こんなことだったのか」
 愛一郎を夕食からはずしたのも、カオルを仲間に入れなかったのも、はじめから仕組んだことらしい。底の浅いたくらみが見えるようで、面白くなかったが、どんなひとでも、ひとつくらいは後暗《うしろぐら》い思いを、心のなかにもっている。死んだひとの追憶にひたりこんでいるというのは、嘘ではないのだろうが、若い娘を相手にしていると、つい、こんなことも言ってみたくなるのらしい。喫茶室のテラスで、横須賀のショウバイニンたちとやりあった情けない現場を、秋川は見ている。行きずりに家へ誘って、否応なくついてくるような女なら、なにを言いかけたって恥をかくことはないのだ。
「暖炉のなかで、コオロギが鳴いていますね。このへんは、ほんとうに静かですこと。まるで、夜ふけみたい……あたくし、そろそろ、おいとましなくては……荻窪へ着くと、十時ちかくになりますから」
 秋川は、コォフィをすすりながら、
「お帰りになるというのを、おひきとめするわけにはいかないが、よかったら、お泊まりください。そのつもりで、支度させてありますから……じつは、愛一郎のことなのですが、私は、イキな父親になりたいとも思わないが、子供がなにをしているのか知らないような、おろかな父親にもなりたくない」
 そう言うと、なんともつかぬ微笑をしてみせた。美術館で、遠くから愛一郎のほうを、じっと見ていた、憂いにみちたあのときの顔だった。
「愛一郎は、臆病なくらい内気で、物事に熱中したりしないやつでしたが、このごろ、たれの手紙を待っているのか、毎朝、門に出て、郵便受の前で張番をするようなことまでします」
 美術館のティ・ルームでお茶を飲んでいるときに、もう、このキザシは見えていた。愛一郎の父は、サト子が愛一郎の愛人だと思いこみ、あくまでも調停の役をつとめようというのらしい。
「よく眠れないようだし、日ましに痩《や》せて行くのが見える……なにか、はじまっているのだろうとは、察していましたが、きょう、美術館で、あれのすることを見て、はじめて得心がいったわけです」
 サト子は、言うことがなくなって、だまってコォフィを飲んでいた。
「一週間ほど前、愛一郎は、
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