は、よして、ちょうだい」
 思いあまったように、青年は顔に手をあてて泣きだした。
 居るだけのひとが、一斉に、こちらへ振り返った。
 なんという、みじめな真似をするんだろうと思って、サト子のほうが泣きたくなった。
 耳に口をよせながら、サト子はささやいた。
「みっともないから、泣くのはやめなさい……あそこにいるのは、あなたのお父さんでしょう? 空巣にはいったことを、言わずにおいてくれというのね?……いいませんから、安心なさい」
 父らしいひとが、おだやかな微笑をうかべながら、サト子のそばへやってきた。
「愛一郎の父です……あなたは、愛一郎のお友だちの方ですか」
 あたしが、こいつのガール・フレンドのように見えるのだろうか。たいへんな誤解……笑いたくなる。
「あなた、お妹さんがおありでしょう? このあいだ、光明寺のバスの停留所で、よく似た方にお会いしましたが……」
 愛一郎の父は、さりげなく胸のかくしからハンカチをぬきだし、後手づかいをしながら、泣いている息子に、そっと渡してやった。ほろりとするような情景だった。
 サト子は感動して、はずんだ声で言った。
「あれは、あたしでしたのよ……あなた、家をさがしていらっしゃいましたね」
 父なるひとは、うれしそうな声をあげた。
「おや、あなただった? 私はお妹さんだとばかり思っていました……陶磁を見るのは、案外に疲れるものですな……どうです、むこうで、お茶でも……」

  テラスに吹く風

 池の面《も》をとざす青々とした杉苔《すぎごけ》のあいだで、ときどき大きな鯉《こい》がはねあがる。
 喫茶室のテラスの丸テーブルで、愛一郎が、不興を受けた愛人といったかっこうで首をたれている。愛一郎の父は、不和の状態を回復しようというのか、サト子と愛一郎の間に割りこんで、笑ったり、うなずいたり、子に甘い父親がやるだろうと思うようなシグサを、のこりなく演じ、サト子の顔色をうかがいながら、とりとめのないことを、つぎつぎに話しかける。
「飯島のお住いは、もう久しくなりますか」
 これから、ひきおこる場面は、死にたくなるほど退屈なことになりそうだ。それはもう、わかっているのだが、父なるひとが、むやみに勤めるので、すげなく座を立つわけにもいかない。
「あたくし、東京ですの……子供のころ、夏ごと、遊びにきましたが」
「それはそれは……すると、この池に、白と赤の蓮《はす》が咲いていたころのことを、ごぞんじでしょうな」
「知っています」
「この池も、むかしは美しかったが、杉苔がふえて、池つづきのようになってしまった」
 のどかな話しぶりから推すと、愛一郎の父は、一週間ほど前、飯島の澗の海のほとりで、息子がえらい騒ぎをやったことを、なにも知らないらしい。
「むかしの鎌倉はよかったが、戦後は、ようすが変って、なじみのうすい土地になってしまいました……私も、扇《おおぎ》ヶ|谷《やつ》に家をもっていますが、留守番をひとりだけおいて、荒れるままにほうってある。まいとし、秋、これとふたりで、亡妻の墓参りに来るくらいのもので……それで、いまお住いになっている飯島のお宅は?」
「叔母の家ですの……由良と申します」
「……失礼ですが、あなたさまは?」
「パパ、ちょっと……」
 哀願するように、愛一郎が父に呼びかけた。
 詰りきった表情をし、興奮して肩で大きな息をついている。叔母の家の縁端で、三人の警官に追いつめられたときのあの顔だった。
 愛一郎という青年は、これほどの緊張にも耐えられなくて、なにもかも、父に告白する気でいるらしい。空巣のように、他人の家へはいりこんだにしては度胸がなさすぎる。サト子は、靴の先で、すこし強く、愛一郎の脛にさわってやった。
「足があたったわ。ごめんなさい、痛かったでしょう」
「いいえ」
 こちらの意志が通じたらしい。のぼせあがったような目の色が、それで、いくぶん落着いた。
 父が息子にたずねた。
「なにを、いうつもりだった?」
「こんなところで、お名前を伺ったりするのは、失礼だから……」
 やれやれ、どうにか切りぬけたらしい。
「失礼だったかな」
 父親は、わからぬなりに笑顔になって、サト子のほうへ向きをかえ、
「あなたは、あそこに並べてあるようなものを、よほどお好きとみえますな……この展覧会で、きょうで三度、お目にかかっているわけですが……」
 そういうと、名刺をだして、テーブルのうえにおいた。
「これが、お名前を伺うなといいますから、伺わずにおきますが、お近づきのしるしまでに、名刺をさしあげておきます」
 秋川良作……東京の住所と番地が、小さな活字で片付けてある。
「東京へお帰りになったら、いちどお出掛けください。ガラクタも、いくらかは集めてありますから」
 このへんが、潮どきだ。カウンターのうえの時
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