かない。五日のあいだ、ここで客引とモデルの二役をやっていたことを思えば、どう弁解しても、誤解をとく方法はなさそうだ。
無言のまま、歩きだす。警官は美術館の石段の下までついてきた。
「甘くみるな。一月でもつけ回して、仕事をさせないことだって、できるんだぞ」
「あたし、古陶磁の展覧会を見に行くの。セトモノなんか、つまらないでしょ。横須賀まで送ってくれるつもりなら、ここで待っていて」
そういうと、サト子は、後もみずに石段を駆けあがった。
ほのかな間接照明が、陳列室にたそがれのような、ものしずかな調子をつけ、高低さまざまなケースのなかで、壺《つぼ》や、甕《かめ》や、水差や、陶碗《とうわん》が、肩の張りと腰のふくらみに、古代の薄明をふくみながら、ひっそりと息づいている。
ケースのうえから、壺の口づくりのぐあいをながめているひとがある。足高のケースにおさまった壺の底づきぐあいを、ガラス越しに、よつんばいになって下から見あげているひとがある。そういう作法が、こっけいで目ざわりで、気が散ってしようがなかったが、そのうちに、まわりの現象が感覚からぬけ落ち、壺とじぶんだけの、しんとした世界になった。
サト子は、ゆっくりとケースをのぞいて行ったが、そのうちに、はっとするような深い色に目を射られて、思わず足をとめた。
おおどかに伸びあがった、無口瓶《ほそくちびん》の[#「無口瓶《ほそくちびん》の」はママ]荒地《あれじ》のままの膚に、ルリ色とも紺青ともつかぬガラス質のものが、一筋、流れている。
「なんという、いい色」
壺どもの腰の線は、一流のファッション・モデルの腰の線よりも、美しい。それだけでも、おどろかれるのに、このもろいセトモノどもは、サト子の年の、百倍も長く生きつづけてきたのだと思うと、なにか、はるばるとした気持になる。
五分ほども、ながめつくし、ため息をつきながら顔をあげた。まださめきらぬ、陶然たるサト子の目は、そのとき、澗の海で死んだ青年の顔を見たと思った……
「あら」
立衿《たてえり》に桜の徽章《きしょう》のある学習院大学の制服を着たよく似た顔が、四十五六の父親らしいひととふたりで、ケースをのぞきながらこっちへやってくる。
学帽の庇《ひさし》が影をおとす端正な顔は、凛々しいほどにひきしまっていて、あのときの青年のような卑しげなところや、追いつめられたけだもののような、みじめな感じはなかった。
「似ているけれど、ちがう顔だ」
父親らしいひとは、儀式ばった会合の帰りらしく、黒の上着に趣味のいい縞《しま》のズボンをはいている。どこかで見た顔だが、思いだせない。
ふたりのことは、それで、さらりと思い捨て、サト子は、また陶磁をながめだした。
「……」
陶碗のうえに人影がさし、声ならぬ声を聞いたと思った。
顔をあげてみると、息苦しいほどキチンと制服を着こんだ青年が、ケースをへだててサト子と向きあう位置にきていた。
「このあいだは……」
あのときの空巣の青年だった。
やはり、死んだのではなかった。月夜の海を泳いで、洞の奥へもぐりこんで行ったとき、呼びかけにもこたえず、落盤のむこうの砂場で、息を殺して隠れていたのだ。
「なんという、嫌なやつ」
この顔が芙蓉の花むらのうえにあらわれてから、海へ飛びこんで溺れて死ぬまでに、二十分とはかからなかった。ひとの命のはかなさに、名もしらぬ青年の不幸な最後に、枕が濡れしおれるほど泣いた。人殺し、という叫び声に追いまくられ、身も心も萎《な》えるほど悩みもした……その当のひとは、どこかの貴公子のような、とりすました顔で、父親とふたりで、古陶磁の展覧会を見に来ている。
追憶のなかに出てくる青年のおもかげは、いつも、すがすがしく、もの憂《う》く、あわれで、やるせない思いをかきたてられたものだったが、いまは軽蔑しか感じない。
サト子は、冷淡な目つきで青年の顔を見かえすと、ゆっくりと、つぎのケースの前へ足を移した。
「お聞きねがいたいことがあります」
青年が、ケースの向う側へきた。
三人もの警官の目の前で、溺れて死ぬまねをしてみせる演技のたしかさは、ほめてやってもいいが、だまされるのは、もうたくさんだ。
「おねがいです」
影のついた大きな目でサト子を見ながら、青年は、祈るように手をねじりあわせた。
うるさくなって、サト子が、出口のほうへ歩きかけると、青年は、腕に手をかけて、ひきとめにかかった。
「五分ほど、お話を……」
半礼装の紳士は、ほど遠いケースの前に立って、じっとこちらを見ている。
そのひとが父親なら、いやなところを見せたくなかったが、青年の厚顔《あつかま》しさが我慢ならなかった。むごいほどに手を払いのけると、サト子は、強い声で言った。
「あなた、なんなのよ? うるさくするの
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