て、コミあうように口もとまでいっぱいに詰まっていた。
「それはお札《さつ》なの?」
「アメリカの本国ドル……三万ドルありますが、これで足りますか」
「たいへんなお金だわ」
「こんなものにおどろくことはない。あなたの取分《とりぶん》の百分の一にもあたらないんだから」
芳夫はポケットから「シアトル日報」という邦字新聞を抜きだして、『日本のルシル嬢、水上サト子さん』という見出しのついたところを指さしてみせた。
「ルシルって、誰のことなの」
「ルシルってのは、初代のロックフェラーの巨万の財産を相続した、有名な孫娘です……まあ、読んでごらんなさい」
有江曽太郎が氷川丸に乗る前夜、シアトルの新聞記者に語った談話の概要で、水上サト子に遺贈された三百五十万ドルに相当するウラニウム鉱山の鉱業権が、坂田省吾という山師の手に渡り、サト子と叔母の由良ふみ子が相続権の問題でゴタゴタしているところへ、在日の不良外人が介在して、受益権者の立場が危険に瀕している。今度の帰国は展墓が目的だが、亡友の意志を継いで水上氏の孫娘の諸権利を確立したいためでもあると結んであった。
「こういうわけで、ヤッサモッサやっていたんです。この金はウィルソンという奴からひったくったんで、開発参加料だとも、入札参加料だとも、いいように考えてくだすってよろしい。ともかく、ぼくがあなたの代理で、仮受取をおいてきました」
なんのことなのか、じっくりと頭にはいってこない。よく聞いて見ようと思っているうちに、緑色の陶瓦のある塀を長々とひきまわした、大きな屋敷の前で車がとまった。
鋳金の鉄門から赤針樅《あかはりもみ》の並木道がつづき、その奥に白堊の大きな西洋館が見えた。
「あなたのお世話はメードがするはずです……車は、運転手つきで、一週間、借切りにしてありますから、出掛けるときはこれに乗るように……どこへ行かれてもいいが、有江の話がすむまでは、秋川や神月の一族に会わないほうがいいです……あなたが、ここにいることは、モデル・クラブの天城が知っていますから、用のあるときは連絡してください」
そう言うと、このひとは清水君、と運転手を紹介した。
「ボーイと夜警の役をしてくれるはずだから、なんでもいいつけてくだすって結構です」
並木の道を、エプロンをつけたメードが二人駆けてきて、サト子の鞄とエア・バッグを受取った。
「じゃ、近いうちに」
挨拶をすると、芳夫は風に飛ばされながら、いま来たほうへひとりで帰って行った。
三方にひらけた麻布の高台の地形を利用して、丘と谷のある見事な造庭をしている。
サト子の部屋の窓から見える部分だけでも、二千坪はあるだろう。いちめんの芝生で、余計な木は植えていない。紡錘形に剪定《せんてい》したアスナロを模様のようにところどころに植えこみ、その間に花壇と睡蓮の池がある。芝生の中の小径《こみち》に沿って、唐草模様の鉄骨のアーチが立ち、からみあがった薔薇の蔓が枯れ残っていた。
二階のバルコンに出ると、遠くに秩父の連峰が見え、反対の側には赤十字病院の軍艦のような白い建物が、芝生の枯色と対照していい点景になっている。
この五日、サト子は広大な洋館の翼屋《よくおく》で、のうのうと暮していた。
脇間のついた二十畳ほどの居間の奥は寝室で、つづきが化粧室と浴室。五メートルもある化粧室の一方の壁は、全部ローブをおさめる隠し戸棚になっている。両開きの大きな扉をあけると、二側になったチューブの横棒《バア》にハンガアが三百ほど掛かり、下は靴棚で、これも二百ほど仕切りがあった。
芳夫にこの家へ連れてこられた日、あるだけのハンガアにローブが掛かり、靴棚にぎっしりと靴が詰っているところを想像して、サト子は、あっけにとられた。
浴室は天井まで模造大理石を張りつめ、十人もいっしょにはいれるような薄緑の蛇紋石《じゃもんせき》の大きな浴槽のそばに、タオルのおおいをかけたスポンジの寝椅子が置いてある。湯上りに、ためしに寝ころがってみたら、厚いスポンジの層がサト子のからだをフンワリと受けとめ、宙に浮いているような安楽な状態にしてくれた。
「贅沢というのは、なるほど、こんなものなんだわ」
どんなひとが住んでいた家か知らない。外国の映画では、これによく似た夢のような場面をいくどか見たが、東京の山の手に現実にこんな生活をしていた人間がいたとは、貧乏で衰弱したサト子の頭では、どうしても納得しかねた。
次の日の朝、芳夫から電話がきた。
「いまの家、気に入りましたか」
「気に入ったなんて段じゃないわ、あまりすごいので、おろおろしているのよ」
「気に入ったら、買ったらどうです? 千万ぐらいで話がつくと思いますが」
サト子は三万ドルの紙幣のはいっている、空色の飛行鞄のほうへ振り返りながら、この家も、買
前へ
次へ
全70ページ中63ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング