えば買えるのだと思うと、いままではたいして気にもしていなかった十三億という金の効用が、あらためて意識にのぼって、ぞっと鳥膚をたてた。
「途方もないことをいうのは、やめてちょうだい……それでなくとも、バカなことをやりだしそうで困っているんだから」
 宙に浮いている感じは、スポンジの寝椅子に寝るときだけではなくて、ここの生活自体が、雲の上の青い天界を散歩しているような、のどかなおもむきがあった。
 朝の九時、メードがそっとカーテンをあけにくる。サト子が食事をと言うと、ひとりは寝室用の細長い朝食膳を、ひとりはオレンジの果物盃《カップ》や、ジャムの壺や、生クリームや、コォフィや、焼立てのプチ・パンなどを載せた盆を持ってはいってくる。朝食膳の脚を起し、サト子の膝の上にまたがせて盆を載せ、スマートな手つきで食器の位置をあんばいし、サト子の胸にナプキンをひろげて出て行く。
 気がむけば、朝食のあとで風呂にはいる。カランをひねったりすることはいらない。なにもかも、十語以内の命令でカタがつく。インター・ホーンのスイッチをあけて、バスを、というと、メードがなにもかもやってくれる。
 芳夫の話では、コックとコックの下働きと、メードがふたり……つまり四人ひと組になってホテルから出張してくる仕掛けなのだそうだが、こんなふうに行き届きすぎると、なにもする気がなくなる。
 最初の二日ほどは、夕食は本館の食堂へ食べに行っていたが、それもやめた。食べる心配がないときまると、あんなにも叫びつづけていた胃袋が急にだまりこんでしまい、思うほど食べものを受付けてくれない。いまの東京では、外へ出ても、これ以上の贅沢があるわけはないと思うと、出掛ける気もしない。無為の生活のなかで、人間がだんだん物臭くなって行く経過がわかって面白くもあるが、おかげで寝つきが悪くなり、はやく有江のほうの話がきまって、ほんとうに金持になればいい……などと考えるようになった。
「夕食は、どちらで?」
 とメードが聞きにきた。
「ここへお持ちいたしましょうか」
 サト子は煮えきらない調子で言った。
「ちょっと待って……」
 もったいぶっているわけではない。
 ふやけたような生活をしているうちに、あたまのなかが甘ったるくなり、決断力が鈍って、ものごとをハッキリときめにくくなった。
「どうしようかしら」
「やはり、お持ちいたしましょう」
 それでも困る。こんなことをしていると、肥るばかりだ。おっくうだが、すこしは運動をしなくてはなるまい。それで、やっと気持がきまった。
「きょうは、食堂へ行きます」
 広大もない衣装戸棚に一着だけ吊ってある一帳羅のカクテル・ドレスに着かえると、サト子は朽葉色の絨毯《じゅうたん》を敷いた長い歩廊を、本館の食堂のあるほうへ行った。「歩き方コンテスト」の賞品にもらったカクテル・ドレスの裾をひらひらさせ、気取ったポーズで長い廊下を歩いて行く。ファッション・ショウのステージでステップするときのような愛嬌は、みじんもない。映画に出てくる伯爵夫人のように、高慢につんとすましている。
「見ているひとなんかいないのに……あたしって、なんてバカなんだろう」
 くだらないと思ってはいるのだが、こういう環境にはまりこんでから、急に気位が高くなったみたいで、メードたちの前へ出ると、われともなくこんなポーズをとってしまう。
「やれやれだわ」
 趣味のいい家具を置いた明るいサロンを二つ通りぬけると、その奥に食堂がある。
 むやみに天井の高い広々したホールで、ゆっくり四十人はすわれようという長い食卓の端に、一人前の食器が寒々と置いてある。
 最初の夜、シャンデリヤの光りのあふれる森閑とした大食堂で、ぽつねんとひとりで食事をする様式の威厳に圧倒されたが、いまは、これも悪くないと思うようになった。
 食卓につく。ありがたいことに、今夜は食欲がある。
 若いほうのメードが、オードゥヴルの皿を持ちだしながら、
「お写真、とっても、よくとれていましたわ」
 と、そんなことを言う。
 慣れなれしいのが、サト子の感触を害す。たしなめるつもりで、じっと顔をみてやる。
「それは、なんの話?」
「きのうの新聞、ごらんにならなかったんですか。日本のロックフェラー嬢って……」
 とうとう新聞に出たらしい。きのうあたりから、メードたちがみょうに興奮して、なにか言いたげだったが、それが原因だったのだと、サト子は理解した。
 ファッション・モデルのアルバイトに、テレビのスポット・モデルをしていたことがある。原板は捜せばどこにでもあるのだろうが、醤油の瓶を抱いている写真なんかだったら、あまり派手すぎておもしろくない。
「むかしから、新聞は読まない趣味なの……どんな写真でした?」
「すごいイヴニングを召して、笑っていらっしゃる写真でし
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