けだわ」
 芳夫は居ずまいをなおすと、真顔になって、
「身につく話ってのを伺いましょう。あなたがしたいのは、どういうことです」
 いつもの、しゃくったようなところはなく、ひどくしんみりとしていた。
「サト子さん、あなたはなにも知らないでしょうが、ことしの春から、これでもう一年近く、あなたのためにヤッサモッサやっていたんですぜ……だから、どうしてくれというんじゃない。あなたが幸福になれるように、純粋にそればかりをねがって……」
 毎夏、鎌倉の海で遊びくらした仲で、サト子に苛《いじ》められながら、サト子の行くところならどこへでもついてくる、人なつっこい少年だった。キザな恰好をするので誤解されるが、姉のカオルが言っているようなつまらないだけの男ではないはずだった。サト子も甘いので、むかしのことを思いだして、つい親身な気持になった。
「あたし、お腹がすいてるのよ。いまの望みはなにか食べたいということだけ」
 芳夫が座席のうしろに倒れて、腹を抱えて笑いだした。
「日本のルシル嬢が、腹をすかして泣いているって? こいつは、いいや」
 さんざんに笑ってから、芳夫は涙を拭いて、
「ええ、それから」
「それから、OSSで罐詰や腸詰を山ほど買いこんで、西荻窪の離屋へ帰って、そんなものに取巻かれながら、二三日、安心してごろっちゃらしていたい……」
「それも思召しどおりにいたしましょう……それで、今日はどこへ行くところだったんです?」
「目白の秋川さんのところへ伺う約束になっているの」
 芳夫はむずかしい顔になって、首を振った。
「それは、やめていただきましょう。それじゃ、日米タイムスのやつらを向けてやった甲斐がなくなる」
「あれは、あなたの仕業だったのね? おかげで、だいじな話がこわれてしまったわ」
「神月が恐れているのは、あなたのことが新聞に書きたてられて、じぶんらの暗い仕事が明るみに出ることなんだ。新聞記者をさしむけてやれば、いやでもあなたを逃がすだろうと思ったから」
「なんのために、そんなことをするの? 神月はともかく、秋川さんまでが迷惑するわ」
「秋川はいい人間だが、二ヵ月ほど前から、あなたにとって危険な存在になっているんです。秋川のところへ行くのは、当分、見合わせてください」
「それは命令なの?」
「いや忠告です……それから、いま西荻窪と言ったが、あそこの離屋へ帰るのも、やめていただきましょう」
 足もとのスーツ・ケースを顎でしゃくって、
「当座困らないようにと思って、西荻窪へ行って、あなたの身のまわりのものを持ってきました」
 サト子は腹をたてて、底のはいった声でたずねた。
「あたしをどこへ連れて行こうというの?」
「麻布に適当な家を見つけておきましたが、お気にいらなかったら、お望みのところへご案内します。箱根でも、熱海でも……」
「あなたなんかと、そんなところへ行くと思う?」
 芳夫は、ふむと鼻をならすと、なんともいえない複雑な笑いかたをした。
「その考えかた、通俗ですね……あなたには、ぼくってものがまるっきりわかっちゃいないんだ」
 そういうと、感慨をとりまとめようとでもするように、煙草をだしてゆっくりと火をつけた。
「子供のころ、ぼくはあなたほど好きなひとはなかった。あなたのそばへ行くたびに、胸をドキドキさせていたもんです。そのときの印象は、いまでも心のどこかに残っているが、ぜひともあなたに愛されたいとも、結婚したいとも思っちゃいないんですよ……位取りがちがうんだ。あなたはあまり立派すぎて、ぼくの手に余るんですよ。あなたと結婚したら、ぼくの半生はひどく窮屈なものになるでしょう。それはもうわかっている。ぼくが結婚する相手は、あなたより二ポイントほど下った、平凡な女で結構です……ともかく、ぼくには保護感情みたいなものがあって、しきりにたれかに奉仕したがっているらしい。いまのところ、それがあなただというだけのことなんだから、誤解のないようにねがいたいです」
 車は青山一丁目のあたりを走っている。芳夫は脇窓から町並をながめながら、
「笄町《こうがいちょう》へやってくれ」
 と運転手に言った。
「よけいなことを言うなよ」
 芳夫が運転手を叱りつけると、車は急に勢いづいて、墓地の間の道を麻布の高台のほうへ走りだした。
「いま、家をお目にかけますが、ほかに、なにかお望みがありますか」
「仕事の口が二つあったんだけど、どちらもうまくいきそうもないの。あなたがアラディンのランプを持っているなら、明日からでもすぐ働けるところと、前渡金をすこしもらえるようにしていただきたいもんですね」
 芳夫は脇にひきつけていたPAAの空色の飛行鞄《エア・バッグ》のジッパーをあけて、中のものを見せた。サト子がのぞきこんでみると、緑色をした外国の紙幣らしいものが束になっ
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