流れだす。
 洞の奥で、あの青年が、どんな思いでこのうたを聞くのだろう。
「いま行くわ」
 急いで水着に着かえる。植込みの間を這《は》って、庭端から石段を降りると、ひっそりと海に身をしずめた。
 水がぬるみ、海は眠っている。波が動きをとめたので、湖水《みずうみ》のように茫漠《ぼうばく》とひろがる月夜の海を、サト子は、のびたり縮んだりしながら、水音もたてずに洞のほうへ泳いで行った。
 沖の漁船のほうを見る。あと味の悪いものが、心によどみ残ったが、それはもう問題ではなかった。
 月が移り、岩鼻のおとす影で、洞の入口あたりが、ひときわ暗くなっている。奥のほうをのぞきこんでみたが、しらじらとした空明りの反射だけでは、なにひとつ、たしかに見さだめることはできなかった。
「ヤッホー……あたしよ、居たら、返事をして……」
 うちあげる潮のかしらが洞の内壁にあたって、鼻息のような音をたてる。
 返事がない。
 狭い口をもぐって、十間ほど奥へ泳いで行く。
「ひとりでは、寂しいでしょう? 話しにきて、あげたのよ。夜明けまでは長いから……」
 それにも、答えはなかった。
 チムニーの背を擦《す》るような狭いところを這って行く。そこから斜めに上のほうへ折れまがり、そのむこうは潮のつかない砂場になっている。小さかったころは、平気で擦りぬけたものだったが、いまは肩の幅がつかえてはいれない。
「ヤッホー」
 頭だけ入れて、奥のけはいをさぐる。
 ラジオの歌声が、地虫のうなりのようにひびいてくるだけで、ひとのいるきざしは、まったく感じられなかった。
 やはり、あのとき溺れて死んだ。それが、ギリギリの結着というところらしい。
 サト子はガッカリして、あえぎあえぎ、洞の口から澗の海へぬけだした。
 泳ぎ帰る精もない。あおのけに水の上に寝て、波のうねりにからだを任せながら、いつまでも月をながめていた。

  仕事と遊び

 あの日は、残暑の頂上だったらしい。台風が外《そ》れ、それから四五日すると、なんとなく風が身にしみるようになった。
 あの夜、サト子は海からあがると、どの部屋よりも海からへだたった、山側の叔母の寝室で寝たが、頭の下でたえず熱いまくらをまわしながら、朝まで、まんじりともしないという夜を経験した。
 目をつぶると、やさしい顔をした青年のまぼろしが、ひっそりと澗の海から立ちあがってくる……
 いらざる庇《かば》いたてをしたばかりに、死なせなくともすんだひとを死なせてしまったという思いで、声もあげずにベッドのうえをころげまわっていたが、夜があけると海の見えないところへ逃げて行きたくなり、その日いちにち、谷戸《やと》から谷戸へ、さすらい歩いた。翌日からは、八幡宮の境内や美術館の池のそばで、ささやかなアルバイトをしながら日をくらし、おそくなってから家へ帰るようにしていた。
「あすは、東京へ帰ろう」
 サト子は裏庭の濡縁に立ち、風に吹き散らされて、さびしくなった芙蓉の株をながめながらつぶやいた。
「叔母も帰ってきたし……そろそろ働きださなくては……」
 東京では、秋のショウがはじまりかけ、そのほうの準備にかかっているはずなのに、サト子のところへは、誘いの電話ひとつかかって来ない。
 サト子は、うらみがましい気持になって、ふむと鼻を鳴らした。
「あたしなんか、どうせ三流以下だけど」
 ろくなアクセサリーひとつ、穿《は》きかえの靴すら満足に持っていない、『百合組』といわれている四流クラスだから、シーズンのはじめから、口などかかってこようはずもないが、東京を離れていることが、やはりいけないらしい。いそがしいひとばかりなので、鎌倉にいる新人のモデルにまで、気をくばってはくれないのだ。
 おちびさんの女中が、木戸から駆けこんできた。
「お客さまでございます」
「あたしのところへ、お客さまなんか、来るわけはないわ」
「でも、そうおっしゃいました……中村吉右衛門とおっしゃる方です……」
「中村吉右衛門?……コケシちゃん、あなた、聞きちがいじゃないの?」
「奥さまにお取次したら、お嬢さまのほうだったんです……それで、奥さまが、もし市役所の税務課のひとだったら、まだ帰らないと、おっしゃるようにって」
「じゃ、広縁のほうへ回っていただいて……」
 広縁の椅子で待っていると、玄関わきの枝折戸から、いかついかっこうをした、年配の男がはいってきた。
 黒っぽい背広を着こんで、秋のすがたになっているので見ちがえたが、あの日の、ひとのよさそうな中年の私服だった。
「あなたでしたの……あなたが中村吉右衛門?」
「私が、中村吉右衛門です」
 脳天を平らに刈りあげた、屋根職といった見かけの無骨なひとは、中村吉右衛門には、似てもつかぬものだった。
 サト子は、こみあげてくるおかしさを、下っ腹のとこ
前へ 次へ
全70ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング