ますな……海端も、思ったより、風がない」
と、しんみりとつぶやいた。
サト子は、バスのほうを見ながら、そそくさと答えた。
「その家なら、逗子《ずし》のトンネルの下の道を、飯島のほうへ、すこし行ったあたりです」
「ありがとう。バスにお乗りになるところだったんですね、足をおとめして」
「……そのへんで、きょう空巣のはいった家、とお聞きになれば、わかるだろうと思いますわ」
「へえ、そんなことが、あったんですか」
サト子が乗ると、すぐバスが動きだした。
窓越しに見かえると、いまの紳士は、まだそこに立って、じっとバスを見送っていた。
駅前の広場で、バスから降りると、円形花壇のベンチで、大勢のひとが涼んでいた。むっとするような暑気がおどみ、駅の正面の大時計が汗をかいていた。
「ソーダ水でも、飲もうかしら」
足のとまったところで、喫茶店にはいりかけたが、ぎょっとして、入口で立ちすくんだ。
正面の白い壁に、「リリー・ジュース」の大きなポスターが貼ってある。ビキニ型の水着を着て、大きなジュースのびんを抱いた水上サト子が、こちらを見て笑っている。
最初の写真撮影……たしかに、うれしかった。顔じゅうの紐《ひも》をといて、あけっぱなしで笑っているのがその証拠だが、このポスターは、いまでは見たくないものの一つだ。東京では、とうのむかしに死に絶えてしまったのに、生きのびて、こんなところで待ち伏せしていようとは、思いもしなかった。
広場をわたりかえして、駅の前のパチンコ屋へ行く。
暑いので、押しあうほどには混んでいない。
はじけかえる金属の摩擦音と、気ぜわしいベルの音。うだるような暑気に耐えながら、玉受けの穴から機械的に玉を送りこんでいると、徴用されて、名古屋のボール・ベアリングの工場で玉を磨いていた、情けない夏の間の記憶が、指先によみがえってくる。
むこうの台で、漁師らしいのが、大きな声で話をしている。
「古女房の初っ子で、それが難産というんじゃ、おめえも楽じゃねえな」
「今夜の、潮いっぱいは、宵の五ツ半か」
時計を見あげているような、短い間があってから、長いため息がきこえた。
「あと三十分ってところが、ヤマだ。やりきれねえや」
鎌倉の漁師は、満潮のことを「潮いっぱい」という。月の引く潮のいきおいで、赤ん坊を産もうとしている女房がいる。満潮になれば、洞《ほら》のなかで溺れてしまう青年がいる。
サト子は、時計を見あげた。
八時半。ぞっと鳥膚がたった。
「つかまるくらいなら、死んでしまう」と、あの青年は言った。
言葉のカザリのようではなかった。あんな深い目つきをしてみせる青年なら、言ったとおりのことをするのだろう。
サト子は、パチンコ屋をとびだすと、駅口でタクシをひろった。
「飯島まで……急いで」
緑色の小型のタクシは、一ノ鳥居をくぐり、海岸に近い通りを走って行く。
脇窓《わきまど》から、月の光にきらめく海が見える。その海は砲台下の錆銀色の澗につづいている。
今日の今日くらい、人間の生死の問題が、身を切るような辛さで迫ってきたことはまだなかった。
「すっ飛べ」
心のなかで叫びながら、サト子は目をつぶる。
一秒一秒が、光の尾をひきながら流れ去るような思いがしていたが、現実は、やっと海岸橋を渡ったところだった。
「ねえ、急いでくれない」
運転手は、前窓を見つめながら、たずねた。
「なにか、あったんですか」
「いま、子供が生れるというさわぎ」
それで、グンとスピードが出る。
町並みの家々では、あけはなしたまま戸外で涼んでいるので、どの家も、奥までひと目に見とおされる。縁台でゆったりと団扇《うちわ》をつかっているこのひとたちは、暗い洞の奥で死にかけている青年と、なんの関係もないのだと思うと、なにか、はかない気がする。
海沿いの暗い道をタクシで飛ばし、そのうえで、なにをしようというのか。
洞の奥に、大震災のときに落盤したという、満潮の水のさわらない岩棚《いわだな》が一カ所ある。サト子が望んでいるのは、あの青年を岩棚のむこうの砂場へ連れこみ、潮がひいて、あすの朝、洞の口がまた水の上にあらわれ出るまで、赤ん坊のように抱いていてやりたいということらしかった。
「あたしにだって母親の素質があるんだろうから、こんなことを考えたって、おかしいことはない」
タクシが門の前でとまった。車を帰して、家のなかに駆けこむと、広縁から庭先へ出てみた。
集魚灯をつけた漁船は、まだ、あきらめずにやっている。漁師と若い警官のすがたは見えず、中年の私服が、ひとりだけ船にいた。
戸締りしたところを、のこらずあけはなすと、サト子は、ラジオのスイッチをひねった。
「フニクリ・フニクラ」という、どこかの国の陽気な民謡が、割れっかえるような音で
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