ッタリと貼りつく。
 夕日が流す朱の色で、空も、海も、燃えあがるように赤く染まっていたが、葉山のあたりの空が、だんだん透きとおった水色にかわり、そこから、のっと大きな月が出た。
 漁船をだし、底引の錨繩《いかりなわ》で海の底をさぐりはじめてから、もう三時間以上になる。
 庭端の芝生に膝を抱いてすわり、海の底をさぐりながら、澗のなかを行きつ戻りつしている漁船を、身を切られるような思いで、サト子は、ながめていた。
 この庭端に影のようにうずくまっているのを知りながら、舳《へさき》に立って潮道を見ている中年の私服も、パンツひとつの警官も、サト子を無視することにきめたふうで、ふりむいて見ようともしない。
「バカめ、殺したのはお前なんだぞ」
 警官たちの冷淡な身振りのなかに、無言の叱責《しっせき》がこもっているのを、サト子は感じる。
「だから、あたしに、どうしろというの?」
 サト子は、やりきれなくなって、足をバタバタさせる。
 あの青年が海に飛びこんで、みなの見ているところで溺れて死んでしまうなどと、たれが予想したろう。
 漁夫も、警官も、漁舟も、月のしずくをあびて銀色に光っている。
「こんな澗のうちを、ひっかきまわしたってよウ、死体なんざ、あがりっこ、あるかよ」
 漁師たちは、はじめから嫌気なふうだったが、暮れおちると、ダレて投げだしにかかった。
 澗のうちを洗って、滑川《なめりかわ》の近くから外海《そとうみ》へ出て行く早い潮の流れがある。二日もすれば、片瀬か江ノ島の沖へ浮きあがるはずだから、そっちを捜すほうが早道だとそんなことを言っている。
「ホトケサマが沈んでござるなら、これだけやれァ、とっくにカカっているはずだ」
 それは、サト子の言いたいことでもあった。
 澗のむこうの岩鼻、旧砲台の砲門から十尺ほど下った水ぎわに、磯波がえぐった海の洞《ほら》が口をあけている。
 土地っ子と組になって、この澗で泳いでいたころ、日があがって水がぬるむと、洞の口からもぐりこんで、奥へはいって涼んだものだった。
 崖の上で見ていると、波の下に沈んだ青年のからだが、青白い線をひいて、洞門へ吸いつけられていったようだったが、磯の低いところにいた警官たちには、見えなかったのかも知れない。
「いまになっても、あがらないところをみると、あのひとは、たぶん、洞の奥へ隠れこんだのだ」
 そう思った瞬間から、サト子の立場は、いっそう辛《つら》いものになった。
 漁師たちが錨繩をひきあげようとすると、潮道を見ていた私服が、
「じゃ、おれがやってみる」
 と、上着をぬいで、じぶんでやりだした。
 月の光のなかでは、人間も、自然も、やさしげに見えるのだろうか。庭先で、あんなエグイ顔をしていた警官たちは、忍耐強い父親のような思いの深いようすになり、是が非でもチンピラの死体をひきあげようと、なりふりかまわず、うちこんでいる。
 サト子は、得態の知れない感動で胸をしめつけられ、
「あのひとは、そこの洞のなかにいます」
 と、いくども叫びだしそうになった。
 むだな骨折りをしている警官たちが、気の毒でならない。いまとなっては、空巣なんかに同情する気は、みじんもないが、といって、そこまでのことは、しかねた。
「見ちゃ、いられない」
 サト子は、芝生から立ちあがると、身を隠そうとでもするように、家のなかに駆けこんだ。
 サト子は、でたらめな鼻唄をうたいながら、行きどころのないタマシイのように家のなかを彷徨《さまよ》い歩いていたが、どの部屋へ行っても、集魚灯をつけた底引の漁船が、目の下に見える。崖端へ走りだして、大きな声で叫びだしそうで、不安でたまらない。
 姿見の前でスカートのヒップのあたりをひと撫でし、戸締りをして家をとびだすと、光明寺のバス停留所のほうへ、歩いて行った。
 あふれるような月の光。山門の甍《いらか》に露がおり、海の面《も》のようにかがやいている。
 バスが来た。バスはここで折返して、駅のほうへ帰る。
 車がまわってくるのを待っていると、ホワイト・シャツに、きちんとネクタイをつけた身なりのいい中年の紳士がバスから降りて海岸へ行きかけた足をかえして、ゆっくりとサト子のそばへやってきた。
「ちょっと、おたずねします。久慈さんというお宅、ごぞんじないでしょうか。このへんだと、聞いてきたのですが、材木座は広いので」
 久慈……きょう空巣のはいった家は、たしか久慈と言っていたようだ。
「どういう、ご用なんでしょう」
 久慈とこの紳士は、どういう関係なんだろうと考えているうちに、みょうなことを言ってしまった。
 そのひとは気にもしないふうで、
「家のものが、昼間からお邪魔しているはずなんですが、月がいいから、呼びだして散歩でもしようと思って」
 そう言うと、月を仰いで、
「蒸し
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