貧乏にしておくのはよくないから、君のまわりのひとたちを保護する意味で、今日まで君の生活を見てきた……うちあけたところは、そうだったんだ」
 マニキュアをした美しい手を、神月は目の前でうちかえしてながめ、
「君の家のほうへ、足をむけて寝たことはないんだよ、これでも」
「君の生きているあいだは、生活の苦労はさせないつもりでいる。贅沢を言いだせば、きりのないことだが、すくなくとも、現在はさほど不自由はしていないはずだ……人生の冒険も波瀾も避けて、平安に暮して行きたいと、いつか君が言っていた。こんなあくどい仕事に手をだそうとは、思いもしなかった」
「おれが、なにをしているというんだね?」
「いま、やりかけていることは、体のいい誘拐みたいなものだと言っているんだ……サト子さんは孤独な境涯にいるが、それでも、まちがいのないようにと心配している人間も、いくらかはいる。そういう中から、サト子さんをひきだして、無理にも孤立させようというのは、どういう企みによることなんだ?」
 神月は、空うそぶいたまま返事をしなかった。
「君の最近の行状を見ていると、ひどく日本人ばなれがして、第三国人になったのかというような気がするよ……苗木のウラニウム鉱山のことだが、個人の利福の問題はべつにしても、国民全体に損失を与える結果になることを承知しながら、平気な顔で、つまらない奴らのお先棒をかついでいる」
 神月は、目にしみるような白いハンカチを抜きだすと、いいようすで口髭をぬぐいながら、
「そんなにまで、水上嬢に肩を入れているのか。そういえば、死んだ、夫人《おく》さんの若いころによく似ているよ、こちらは……邪推だったら、ゆるしてもらうが……」
 秋川は頬のあたりを紅潮させると、愁《うれ》いを含んだ複雑な表情になって、
「つまらないことをいうね。よくよく下劣なやつでも、そんな低音は出さないもんだが」
「こちらが、亡くなった夫人さんの若いころに似ていると言ったのが、そんなに気にさわったのか……言いあてたらしいね、悪かったよ」
 秋川はそれを聞き流して、サト子のほうへ向きかえ、
「いまの小切手を神月君に返してください、事情はあとで申します」
 きょうは、つぎつぎと劇的な場面がひきおこる。サト子には、それがなにと理解することはできなかったが、中村が言ったことなどを思いあわせ、なにかこみいった事情があるのだろうと思い、ハンド・バッグにしまいこんだ小切手を出して、テーブルのうえに置いた。そうして、心の中でつぶやいた。
「これで、また文なしになった、がっかりだわ」
 神月は取るでもなく取らぬでもなく、小切手を指先でもてあそびながら、
「ここへ置いたって、返したことにはならない」
「その紙切れを、紙入れにしまいこめば、それでいいんだ。サト子さんをシアトルへ連れて行って、アメリカの鉱山法で、アチコチしようという企画は、見込みがないものと思ってくれ」
 神月は愛一郎に妙な目配せをしながら、
「愛さん、パパは病気らしいよ……早く帰って、おやすみになるように、言ってくれ」
 愛一郎は睫毛《まつげ》が頬に影をおとすほど深く目を伏せ、石のようにじっとしていたが、そのうちに手をのばして、そっと秋川の腕にさわった。
「パパ、帰りましょう。ぼくたち、お邪魔してるらしいから」
 秋川は、愛一郎の手をとると、小さな子供にでも言うような、やさしい口調でささやいた。
「いま帰ると、サト子さんがつまらない目にあう……知っているはずだね?」
「知っています」
「聞きたいのだが、なんのために神月君に気がねをしたり、恐れたりしなければならないんだ? お前がたれよりも好きだと言っているサト子さんを見捨ててまで、神月君を庇いだてしなければならない義理があるのか」
「ぼく神月さんに借りがあるんです」
「借りというのは……金のことか?」
 愛一郎は祈るように目をとじた。
 神月にどうにもならない負債があることをサト子は知っているので、どういうおさまりになるのかと思って、気が気でなかった。
 秋川は額を曇らせて、じっと考えこんでいたが、間もなく笑顔になって、愛一郎にうなずいてみせた。
「それは、パパが払ってあげる」
「なぜ、ぼくがそんな借りをつくるようになったか、理由を聞かないでも?」
「聞くなと言うなら、聞かなくとも、いい」
 愛一郎の顔に、ほっとしたような色が浮んだ。そのとたんに、涙が筋をつくって頬につたわった。
 秋川は、みえも張りもなく愛一郎の肩を抱きながら、
「子供の借金を、オヤジが払うのは、あたりまえのことだ。その話は、パパと神月君できまりをつけよう。それで、いいね?」
 愛一郎がうなずいた。
 ボーイが秋川に電話だと、つたえた。秋川は立って行ったが、しばらくして戻ってくると、ラウンジの入口へサト子を呼んだ。

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