ちは理解できない。サト子はあてどもなくクロークのほうをながめながら、神月のほうの話をはやくきめて、いくらかでも前渡金を握りたい思いで、焦《いら》々してきた。
サト子のほうは退屈なだけだったが、神月と父の間にはさまった愛一郎の顔は見ものだった。愛一郎は、死んだ母の古い恋文のことで、神月にぬきさしのならないところをおさえられている。父が神月を怒らして、なにもかもさらけだされたらどうしようと思っているふうで、ハラハラしながらふたりの顔をみくらべていたが、そのうちに、
「パパ」
と、あわれな声で秋川に呼びかけた。
「サト子さん、ご用があって、いらしたんでしょう? パパばかりしゃべっていたら、お話ができないでしょうから」
秋川は、わびるようにサト子にうなずいてみせた。
「失礼……お邪魔はしません」
サト子は神月のほうへ向きかえ、
「だいたいのことは、カオルさんから、聞きましたけど」
と控え目に切りだした。
「もうすこし、くわしいことを伺いたいんです。ファッション・ショウは、どこですることになるんでしょう」
神月は象牙の長いシガーレット・ホルダーを、口のほうへ持って行きながら、
「リオとサン・パウロ……行きがけに、シアトルと桑港《サン・フランシスコ》でもやる予定です」
「ドイツのグラス・ファイバーを、日本からブラジルへ持って行くというのは、どういうことなんでしょう?」
「対米感情が悪いので、ビニロン系のものは、ブラジルでは伸びない。それで、サン・パウロの五百年祭の前に、しっかりと食いこんでおこうというのです……だから、モデルもアメリカ人でなく、日本から素質のいいひとに行ってもらうことにしました」
「それで、あたしの役は、どういう?」
「あなたはリーダーになって、十人ばかりのモデルを引率して行ってくださればいいんです」
「日程は、どれくらい?」
「往復の日数も含めて、二週間」
話の筋は通っている。秋川が心配していたような、うろんなところはどこにもない。二週間ですむのだったら、日本を離れることも苦痛ではない。シアトルに寄るなら、お祖父さんにも会えるわけだし、ギャラさえよかったら、この話をきめたいと、承諾するほうにサト子の気持が傾きかけた。
「契約書のようなものがありましたら……」
神月は笑いながら首を振った。
「むずかしい手続きはいらない。紳士協約でいきましょう」
内かくしの紙入れから、あざやかな手つきで小切手をぬきだして、テーブルのうえに置きながら、
「ギャラは、二百万円というところでおさまっていただきましょう。そのかわり、前渡しとして半分だけさしあげておきます……銀行はすぐそこだから、キャッシュ(現金)がよければ、キャッシュでお渡ししますよ」
十四日で二百万といえば、Aクラスの一流のモデルの報酬より、はるかにいい。ほかにむずかしい条件がなければ、断る理由はない。サト子は、ふるえる手で小切手をとりあげた。
「自信がないけど、いっしょうけんめいにやってみます」
秋川が、わきから口をだした。
「二百万円じゃ、安すぎる……そんな取引はない」
神月は、むっとしたように秋川のほうへ向きかえた。
「安いというようなギャラじゃない。君なら、いくら出す?」
「三百五十万ドルは出す」
神月は、ひきつったように笑いだした。
「三百五十万ドルというと、十二億六千万円か……なにを言いだす気なんだ」
あまり大きな話なので、サト子も釣られて笑いだした。秋川はサト子の肩にさわりながら、
「そんな話、断ってしまいなさい。あなたのからだは、たしかに、それくらいの値打ちがあるんだから」
神月は、底意のある目つきで愛一郎の顔を注視しながら、
「君のパパは、ひどいことを言っている。愛さん、だまっていないで、とりなしてくれよ」
愛一郎は、だしぬけに額ぎわまで赤くなった。
「え? そういう約束だったろう。困るときには助けてくれるって……」
愛一郎は、口ごもりながら秋川に言った。
「この仕事がだめになると、神月さんが困るんです……おねがいだから、邪魔をしないで」
しどろもどろになっている愛一郎を、秋川はなでるような目つきでながめてから、人がちがったような辛辣《しんらつ》な顔つきになって、神月のほうへ視線を向けた。
「機会があったら、言おうと思っていたことがあるんだが、いいかね?」
神月は白《しら》々しく煙草の煙をふきあげながら、
「なんなりと、どうぞ」
「君に仕送りをしているのを、友情のあらわれだなどと、君にしたって、思っちゃ、いまい」
「誰がそんなことを思うもんか」
「君は、貧乏するだろうという感じだけで参ってしまうような、弱いひとで、せっぱつまると、めちゃなことをやりだすんだが、そのたびに迷惑をこうむるのは、君の古い友だちや知己なんだ……あまり
前へ
次へ
全70ページ中59ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング