よかった……それは、いろいろなものから離れて、あなたがひとりになることだから……」
「でも、これからは、どうなるかわかりませんのよ。あぶないと思っても、飛びつかずにいられないような貧乏もあるものですから」
 秋川は、いつもの思いの深い目つきになって、
「あなたは、貧乏どころか、たいへんなお金持なのかもしれません」
 と宥《なだ》めるように言った。それがサト子の耳に、いかにもそらぞらしくひびいたので、すっかりやられて、ものを言う元気もなくなった。
 愛一郎が、注意するように秋川にささやいた。
「パパ、神月さんがきましたよ」
 サト子はぎょっとして、クロークのほうへ振り返った。
 アメリカでは夜会服にもなっているグレーのジャケットに、タキシード用のトルウザース。襟にマリー・ゴールドの黄色い花をつけ、神月がゆっくりとこっちへ歩いてくる。
 歳月の力も、神月には作用しえなかったのだとみえる。どう数えても五十六七になっているはずだが、小皺ひとつなく、髪も口髭も黒々とし、唇は血の色がすけて、少年のような無垢の美しさをたたえていた。
 神月には三人の組合せが意外だったらしく、ひととき足をとめてこちらをながめていたが、秋川がうなずいてみせると、すらすらとサト子のそばへやってきて、
「水上さんですね?」
 と念をおしながら、ほっそりとした、白い手をさしだした。
「おばさまとは、古くからの友だちです……そういえば、お若いころにそっくりだ」
 神月の手が、宙に浮いたままサト子の手を待っている。戦前、鎌倉の浮気な女たちが火遊びに現《うつつ》をぬかした伝説の男の手は、心やすくも親しそうにも、そう、やすやすと握れるものではなかった。
 サト子は、しびれるような思いで、そっと神月の手にさわると、神月は横向きにソファにかけ、それがひとつのポーズになっている優美なかたちで、秋川に、
「こちらと懇意だとは、知らなかったよ」
 と沈んだ調子で言った。
「水上氏とは、おやじの代からのおつきあいだ。お孫さんにお会いしたのは最近だが」
 そう言うと、神月の襟の花を見て、
「ドレスアップして、どこへおしだす?」
 と笑いながらたずねた。
「霞山会館で、バイヤーたちのハーロイン(万霊節)のパァティがあるんだ」
「バイヤー? なんでもいいさ。忙しいのは結構だよ」
「そちらさまは?」
「食事をすまして帰るところだ」
「じゃ、ご遠慮なく」
「遠慮じゃない、そちらの用談がすむのを待っているんだ」
 神月は秋川の意中をはかりかねて、チラリと不安な表情をうかべた。
「変な顔をすることはない。そっちの話がすんだら、サト子さんを、どこかへ誘いだそうというだけのことだ。時間がかかる?」
「すぐ、すむ」
「そんなら、ここにいようか。お邪魔でなかったら」
 秋川は、立ちかけていた椅子に腰をおろしながら、
「サト子さんから聞いたんだが、ドイツのグラス・ファイバーの宣伝をするんだって?」
「そうなんだ」
「妙なことをはじめたもんだな。君の才覚ではあるまい。バック・アップしているのは、なにものなんだ?」
「れいのパーマーさ」
「パーマーって、誘導弾の売込みにきているパーマーのことか?」
 神月は、いやな顔をしながら、うなずいた。
「おれが翼賛会の興亜本部にいるとき、あいつがオットー大使の後釜になってやってきた……終戦直後、一時、熱海の万平ホテルに、かくまっておいたこともあるんだ」
「日銀関係では、歓迎会をやったりしているが、なんだか、うろんな人物だな。日独協会なんかじゃ、ナチの系統などは追いだしてしまえなんて、騒いでいるということだが」
「いや、それほどの男じゃない」
「ビニロン・ジュポンの極東総支配人だなんて自称している、ウィルソンなんかもそうだが、あれらの系列は、去年の春ごろから、東南アジア諸国で、詐欺のような手段で、ウラニウムの鉱山を叩いているという噂があるね」
 神月は白い喉を見せて、はははと笑った。
「ウラニウム?……知らないねえ。将来、放射能ファイバーなんてのが、できるかもしれないが、いまのところは、ガラスからとる繊維だけの問題だ」
「日独化繊の内容は知っているが……」
 秋川は強い調子でおしかえした。
「パーマーなんていう、うろんなやつをバック・アップにするような商社じゃないよ」
 神月は、とぼけた顔で、
「どういう調査の仕方をしたか知らないが、事実は事実だ。君には関係のないことだよ」
「関係のないことに、ぼくが口をだすと思うか」
 食堂のほうから、食べものの匂いが、水脈《みお》をひいてラウンジへ流れこんでくる。このふた月のあいだ、たえず脅されつづけてきた、恐怖をともなう飢餓の感じが、胃袋のあたりを強く押しつける。
 食うあてがなく、肉体と精神が恐怖をおこしている人間の気持を、このひとた
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