。おぼえていません」
「海軍にいるころは、軍艦にばかり乗っていて、一年にいくどというほどしか、帰って来なかったから、おぼえていらっしゃらないかもしれないが、中村君のほうでは、忘れられないわけがあるんです。そもそも、飯島に新婚の家庭を持つようになったのも、水上さんの周旋だったし、海軍が嫌になって退役してから、神奈川県の警察に勤めるまで、水上さんの助力で、長い失意の生活をささえていたような事情もあって、中村にとって水上さんは、古い言葉ですが、再生の恩人ともいえるようなひとだったんです」
「でも、中村さん、一言も、そんなこと、お話にならなかったわ」
「あのとおり、人づきは悪いですが、あれで心のキメのこまかい、親切な男です。あなたのことを親身《しんみ》に心配していました。あなた、ご両親がお亡くなりになって、荻窪の奥で一人で暮していられるんだそうで……それから、いまなすっていらっしゃる、ファッション・モデルのことなんかも……」
行く先々で待伏せをしたり、見当ちがいな忠告をしたり、みょうにうるさいひとだと思っていたが、これでいくらか謎はとけた。むかしのお祖父さんの関係で、その孫に厚意をしめそうとするのはいいが、なんのために、他人の生活に立入って、こまかいところまで気をつかうのかわからない。
「ひとり暮しは、もう長いことですから、心配していただくようなことはないんですけど」
「それはそうでしょうとも……中村君も言っていました。めずらしいほど、しっかりしていられるって……あなたほどの方が、生活ぐらいに負けるようなことはないでしょうが、中村君が心配しているのは、べつなことらしい。あなたのごぞんじない、いりくんだ事情のことで……」
ボーイがサト子のそばへやってきた。
「水上さま?」
「水上は、あたしです」
「神月さまからお電話で、まもなくお見えになるということでございます」
サト子が神月と逢う約束になっていることが、それでふたりに通じると、秋川と愛一郎は、ありありと不審そうな表情をうかべて、サト子の顔をながめた。
隠すつもりはなかったが、言いだす折をうしなって、ひどく気まずいことになった。どんな用件で神月に逢うのかと、聞いてくれるようだといいのだが、お行儀のいいひとたちなので、中村のように立入った質問をしないので困る。今日の会合のテーマは、生活相談といったようなことだが、相手が神月では、どんな誤解をうけるか知れたものではない、他人の思惑《おもわく》など、すこしも気にしないで通してきたサト子だが、秋川だけには悪く思われたくない。へんな誤解でもうけたら、死んでも死にきれないような気がする。秋川や愛一郎の不審をとくためにも、そのへんの事情をはっきりさせておくほうがいいと思って、神月がやりかけているグラス・ファイバーの宣伝の仕事と、さっきモデル・クラブの事務所で聞いた、アメリカ・ビニロンのモデル募集の話をした。
秋川は苦笑しながら、
「神月という男は、なんということもなく翼賛会の総務にまつりあげられたほか、仕事らしい仕事もせず、あの年になるまで、ノラクラと遊び暮していた徹底的な遊民なんですが、あの男に、そんなむずかしい仕事ができるのかな……それで、ビニロンのほうには、契約書のようなものがありましたか」
「日本文のと英文のと」
秋川は煙草に火をつけ、沈思するおもむきで、長い煙をふきだしていたが、いつものつつしみを忘れたように、
「サインなすった?」
と、だしぬけに強い調子でたずねた。
おだやかすぎる秋川というひとに、こんなはげしいところがあるとは、思ってもいなかったので、サト子は気《け》おされて、
「いいえ」
とだけ、こたえた。秋川は眉をひらいた明るい顔になって、
「あなたほどの聡明な方が、わけのわからない契約書に署名するような、いいかげんなことをなさるはずがないから」
「おほめにあずかって恐縮ですけど、気分まかせってとこで、深く考えてやったことじゃ、ないんです。ただ、なんとなく気がむかなかったから……あたしには、そんなとき、それはまちがいだと、教えてくれるような友達もないんです」
「そうとは限らない。あなたのために、よかれと骨を折っているひとも、あるかもしれませんよ」
サト子は秋川の顔を見た。秋川は笑いながら首を振った。
「私ではありません」
「中村さんですの?」
「中村君も、そのひとりだが、中村君ともちがいます」
「その神さまみたいなひと、どこに隠れているんでしょう? 中村さんなんかの口だと、あたしはいま、なにかたいへんなことになっているらしいのですけど、こんなときに飛びだしてきてくれるんでなくっちゃ、なんにもなりませんわね」
「出てきても来なくとも、やるだけのことはやっています……ともかく、外地に行く契約に、サインをしなかったのは
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