なく、サト子の直感では、ここにいる三人はファッション・モデルではないらしい。モデルになるくらいの娘は、どんな新人でも、どこかしら、身体の表情を持っているものだが、この三人のスタイルはひどく崩れていて、そういう感覚のひらめきは、どこからも感じられない。そればかりでなく、この顔は、夏の終りに、鎌倉の美術館のテラスでやりあったショウバイニンに、どこか似ているような気がした。
ハンガーに掛けながした仮縫いの服の間から、サト子たちがマネジャーと呼んでいる天城《あまぎ》という事務員が顔をだした。
「ああ、水上さん」
天城は、キビキビ動くのが、この世の生きがいだというように、そのへんの椅子をおしのけながら、サト子のそばへやってきた。
「お電話だったもんだから……」
気がないので、われともなく切口上になったが、あんまりだと思って、
「どうも、わざわざ」と言い足した。
天城は稜《みね》の高い鼻をそびやかすようにして、ジロジロとサト子のようすを観察しながら、
「やってくるところをみると、モデル商売、いやになったというわけでもないのね」
飾窓のそばの事務机のほうへ行って、皮張の回転椅子におさまると、天城は、もっともらしい顔になって、
「仕事をする気、あるの? 大矢シヅの話だと、モデル商売が嫌になって、お役所勤めをするようなことを言っていたけど」
お役所勤め? 大矢シヅがどうしてそんなことを知っているのか、サト子には理解できなかった。
「きめたってわけでもないのよ。それで、どういう話なんでしょう」
天城は薄笑いをしながら、
「話によっては、やってやってもいいって? それはそうでしょうとも。たいへんなお金持になるとか、なりかけているとか、そんな評判だから」
「あたしが? 誰がそんなでたらめ言ったんです? あたしがそんなお金持なら、モデルなんかサラリとやめているわ」
「アメリカのビニロンと技術協定をしている、ある会社の宣伝の仕事なんだけど、東京を振出しにして、大阪と京都と……それから香港《ホンコン》、シンガポールをまわって、バンコックまで行くの。二十人ばかりのレヴュウをサイド・ショウにして……すごい話でしょ」
天城の言うところでは、中東と近東で売込みに失敗したアメリカのビニロン・ジュポンの製品を、日本でマレーやタイに向きそうなものにつくりなおして、東南アジアへ売込もうという企画らしいが、西ドイツからグラス・ファイバーを輸入している会社が、おなじころ、大仕掛けな宣伝をはじめるので、素質のいいモデルがあちらこちらでとりあいになっている、というようなことだった。
「グラス・ファイバーのほうは、山岸カオルというひとがマネージしているんだそうだけど、あなたのほうにも、なにか話があったでしょう」
あったと言えばいいのか、なかったと言えばいいのか、とっさに判断しかねたが、なにも、いちいち本当のことを言う必要がないと思って、どちらともとれるような返事をしておいた。
天城は、ファイルから和文と英文の契約書を二通とりだすと、英文のほうを手もとにとめ、邦文タイプで打ったほうをサト子の鼻先につきつけた。
契約書には、六十日の契約で、ギャラの日立《ひだて》は、内地が三千円。外地は、ほかに、一日、二千円の外地手当のようなものがつき、交通、宿泊、アクセサリー、靴、すべて会社持ち……往復とも旅客機で、契約と同時に、三万円前渡しすると書いてあった。
「どお? グラス・ファイバーより、条件がいいでしょう?」
そう言うと、奥の三人のほうへ振り返って、
「あのひとたちも、むこうを蹴って、こっちへ契約したわ」
神月のほうはどういう話なのか、聞いていないからわからないが、契約書に書いてあるかぎりでは、一流のファッション・モデルより、はるかにいい条件になっているうえに、三万円の前渡しは、サト子にとっても、ちょっと抵抗できないような魅力があった。
天城は、手もとにとめていた英文タイプのほうを、押してよこしながら、
「サインなさるといいわ。前渡金《アドヴァンス》をお渡ししますから……英文のほうは、ローマ字で」
サト子は、なんということもなく、英文の契約書を手にとってみた。
サト子の女学校時代は、戦争も、とりわけひどい時期で、英語どころか、国語さえ満足に勉強をしたことがなかった。初年級のリーダー程度ならともかく、ぬきさしのならない商用英語で綴った契約書など、読めようわけはない。
サト子はあきらめて、ペンを借りてサインをしかけたが、そのとき、あなたは、これから、えらいやつに独力でたちむかうことになるといった、いつかの中村の言葉が、天の声のように耳のそばで鳴りひびいた。
つづいて、いままで思いだしたこともなかったある情景が、ふいに、こころにうかんだ。
この春ごろ、いつもの
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