、今日まで、つないでいてくれたんですけど、こんなものにたよっているのでは、みじめでやりきれないの。愛一郎さんだって、こんな暁子、好きじゃないでしょう」
いっこうに通じないことを、くりかえしくりかえし語っているうちに、気持が落着いたのか、曇りのない、さっきの澄みきった顔になって、
「迷うのは、やめました。やはり、渡していただくわ」
と、キッパリとした口調で言った。
「お預りします。いつ、お伺いできるかわからないけど、それで、よろしかったら」
「ひと月あとでも、半年のあとでも、ご都合のよろしいときに……」
ちょっと言葉を切って、
「これを、お渡しくださるとき、愛一郎さんがあたくしに会いに来てくだすったのでないことが、暁子に、よくわかったと言っていたって、ひと言、伝えていただきたいの」
と、調子の高い声で言った。
サト子は、はっとして暁子の顔を見返した。心にキザシかけた思いがあったが、それは、どういうことなのか、サト子自身にも、よくわからなかった。
旅への誘い
雨雲が垂れて、夕暮れのように暗くなった西銀座の狭い通りを、風速十五メートルの強風が、急行列車のような音をたてて吹きとおっている。
サト子は、ビニールのネッカチーフに包んだ暁子からの預りものを、ぎゅっと胸のところへおしつけ、風に吹き飛ばされながら、八丁目から六丁目までの間を、いくども往復して時を消していたが、なかなか時間が経たない。もういいころだと、喫茶店の時計をのぞいてみると、やっと正午をすぎたばかり。約束の時間までに、まだ一時間以上もあるが、身体をまげて歩いていたので、腰のあたりがズキズキと痛んできて、あてどもなく風の中を歩きまわるのが、我慢ならなくなった。
七丁目の角に、サト子たちのモデル・クラブの事務所がある。「モードの店」とガラスの切抜文字を貼りつけた飾窓の上で、フランスの三色旗まがいの派手な日除《ひよけ》が、吹きちぎられそうに動いている。
出がけに、モデル・クラブの事務所から電話で、いい仕事があるから、すぐ来いと言ってきた。最近、どこかに大きなファッション・ショウがあるらしいことは、大矢シヅも言っていたし、曽根というバアのマダムなどは、こちらの意志もたしかめずに、否応なしにおしつけてしまいたいような口ぶりだった。
ファッション・モデルという職業になじんでいる間は、さほどにも感じなかったが、二た月ほど仕事から遠のいて、あらためて反省してみると、仕事の面はともかくとして、生活そのものは、いいかげんで、とりとめなくて、われながら、うんざりしてしまう。なんでもいいから、もっとまともな職業につきたいと思って、夫婦別れをした鎌倉の叔母の主人……というのは、かつては叔父だったこともあるひとだが、それが鉱山保安局の係長ぐらいのところにいるので、就職の相談に行くと、叔母との長々しい離婚訴訟のあとなので、あまりいい顔はしなかったが、川崎の鉱山調査研究所に雇員のあきがあるから、紹介してやってもいいと言ってくれた。
それはありがたいのだけれども、給料は六千円未満ということだから、荻窪から川崎まで通うとすると、交通費その他をひけば、サト子ひとりが食べるのがせいぜい。とても、お祖父さんを引取って、世話などしてやれそうもないので、その件は保留しておいてもらうことにした。
今日のカオルの話しぶりでは、近く横浜に着くのは、お祖父さんではなくて、有江という代理人らしい。それがほんとうなら、お祖父さんの世話をするという心配がなくなったわけで、このへんが、まともな職業につくチャンスだとも思われるのだが、身分不相応な、不時の収入に甘やかされてきた身で、いきなり、六千なにがしの給料だけで、生活してゆくことはむずかしい。生活を切りかえるにしても、右から左というわけにもいかない。それにはそれだけの準備もいれば、心がまえもいる。もういちどだけ、ファッション・モデルをやってからでも遅くはないようだ。神月はどんな話をするつもりなのか知らないが、その前に、こちらの話を聞いてみるのも無駄ではなかろう。
「どういうことだか、聞くだけは聞いてみよう」
サト子は、思いきり悪く、町角の歩道に立って考えていたが、あいまいな身振りでドアを押すと、そろりと内部《なか》へはいった。
カーテンで仕切った、仮縫いをする狭いところに、新人らしい、なじみのない顔が三つばかりおしあって、サト子がはいってきたのを見ると、話をやめて、いっせいにジロリとこちらへ振り返った。
「マネジャー、いないのかしら?」
ファッション・ショウのステージから抜けだしてきたばかりというような、突飛なフロックを着た吊目の娘が、あしらうような鼻声でこたえた。
「さあ、どうでしょう……事務のひとなら、奥にいますけど」
なじみがないばかりで
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