ように、坂田省吾が牛車を曳きながら、無駄話をしにきた。ファッション・モデルというものは、仕事があるたびに、契約書をとりかわすのか、というような話がでたとき、坂田省吾が、こんなことを言った。
「東南アジアであったことですが、マレー語の契約書のほうは注文書《オーダー》で、英文のほうは、鉱業権譲渡の承諾書だったそうです……これからもあることですが、納得できないものには、絶対に署名しないようになさい」
 あのとき、坂田はなにを言うつもりだったんだろうと考えているうちに、坂田の言った言葉の重みに胸をうたれて、はっとわれにかえり、理解も納得もしないものに、署名することはないと思って、ペンを置いた。
「これは、邦文タイプで打った契約書と、同文なんでしょうか」
 天城は、なんともつかぬ冷酷な表情をしながら、
「邦文タイプのほうは、英文の翻訳だから、同文にちがいないでしょう。あのひとたち、みなサインしたわ」
「あの方たちはそうでしょうが、あたし、こんなむずかしい英文は読めないから」
「あなたって、思いのほか疑り深いのね。それじゃ、あたしたちのすることが、信用できないと言っているみたいじゃないの」
「そういう意味じゃないけど、読めもしないものに、サインするわけにはいかないわ……誰かに読んでもらいますから、きょう一日、拝借して行っていいかしら」
 天城は、怒った顔になって、サト子が手に持っていた英文の契約書をひったくると、荒々しくファイルの中へ投げこんだ。
「契約の内容は、会社の機密なんですから、お貸しするなんてわけにはいかないのよ……せっかく来ていただいたけど、ご縁がなかったわね……でも、まだ二三日、余裕がありますから、サインする気になったら、また、いらっしゃい」
 ひどく後味《あとあじ》が悪い。じぶんでは、さほど理屈っぽい女だと思っていないが、やさしく話をすることができないので、みなを怒らせてしまうらしい。
 事務所を出て、六丁目の『アラミス』の前まで行くと、葉を落したプラタナスの街路樹のそばに、どこかで見たことのある車が置いてあった。いつかのウィルソンという男の車に似ているようだが、内張《うちばり》の色がちがう。考えているうちに、鎌倉の近代美術館から、扇ヶ谷の秋川の家まで乗って行った車だったと思いついた。そういえば、愛一郎と並んですわった操縦席のシートのぐあいに見おぼえがあった。
「神月は、秋川なんかといっしょなんだわ」
 愛一郎は神月伊佐吉を憎んでいるようだが、どういう関係にあるのか、秋川は、毎月、神月に生活費の仕送りをし、神月が銀座のバーやレストランで使っただけのものは、文句もいわずに払ってやっているということも聞いている。秋川が神月といっしょに食事をするなんてのは、ありそうなことだった。
「神月なんか、どうでもいいけど、秋川や愛一郎に会えるなら、うれしいみたいだ」
 ひっそりとした秋の風景のなかで、秋川と対坐したひと夜の楽しい思い出は、いまも心のまんなかに場をとっている。秋川氏はお行儀がよすぎ、どこか、よそよそしいところがあるが、話している間じゅう、気持が落着いて、心の調和といったようなものを感じさせる。もういちど、おだやかな人柄の紳士と対坐してみたいとねがっていたが、こんな折に秋川に会えるのかと思うと、気持がはずんできて、ひとりでに笑いだしそうになる。
 ガラス扉を押して、クロークにコートをあずけると、ボーイ長らしいのが、見さげはてたような目付で、サト子のほうへやってきた。
「どなたさまに?」
「神月さんに」
 ボーイ長は冷淡にうなずいた。
「うけたまわっております。まだ、お見えになっておりませんが、どうぞ、こちらで」
 そう言いながら、グリルにつづく朱色の長椅子のあるところへ案内した。
 寒々としたラウンジには、若い男女の一対がさしむかいになって話しこんでいるきりで、神月の姿はなかった。
「きょう秋川さんが、おみえになっていらっしゃるんでしょ?」
 秋川の名をいうと、ボーイ長は、とたんに謹んだようすになって、
「ダイニングで、食事をなすっていらっしゃいます」
「おひとり? おふたり?」
「いつものように、ご子息さまと、それから、お客さまが、おひと方……なんでしたら、あちらへ?」
「ここでお待ちするわ……愛一郎さんを、ちょっと、どうぞ」
「あなたさまは?」
「鎌倉の飯島、と言ってください」
 ボーイ長は会釈をして、食堂のほうへ行くと、すぐ愛一郎がラウンジへ出て来た。うしろに中村吉右衛門が、ひき添うような恰好でついている。
 愛一郎は、サト子のそばへやってくると、なつかしそうに手をとって、
「とうとう、つかまえた……待ちぼうけをくわした罰に、これから家へひっぱって行きます。いいでしょう?」
 と、言いながら、身にそなわった品を失うほど、
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