、たくさんでしょう。有江というひとが来て、うるさい話になって、結局は、カラ騒ぎだったというようなところへ落着くのでしょうが、その間、あっちこっちからこづかれて、嫌な思いをしなくちゃならないのよ……あたしなら、どこかへ逃げだしちゃう。日本から離れて、あまり遠くないところへ行って、幕になるのを待ってるわ」
カオルは、うっとりとしているサト子の腕に手をかけると、眠りから呼びさまそうとするように、強くゆすぶった。
「しっかりなさいよ」
「だいじょうぶ……眠ってなんかいないわ」
「サト子さん、あなた神経衰弱《ノイローゼ》よ」
「そうかもしれないわ」
「むかしの元気、どうしたの。オールド・メードがしぼんだみたいな顔をしているわ」
「そんな顔、している?」
「あなたみたいに、馬鹿正直に貧乏と取っ組むひともないもんだわ。もうすこし、暢気《のんき》におやんなさいよ。いい折だから、二ヵ月ほど、外国へでも行ってきたらどうなの」
あてどのない話をするものだ。サト子は、無理な笑顔をつくりながら、いいかげんに調子をあわせた。
「日本にいてさえ、満足に暮せないというのに、どうして外国へなんか……でも、そんなうまい話があるの」
カオルは、気をもたせるような含み声で、
「あるにはあるのよ……飛びつくほどの話でもないけど、あなたなら、どうかと思って……」
「どんな話でしょう」
「ドイツのグラス・ファイバーと、アセテートを輸入している生地屋《きじや》なんだけど、一流のデザイナーと演出家を専属にして、ファッション・ショウにレヴュウをくっつけて、中米と南米で、日本趣味の大掛りな宣伝をしようというわけ……プロデューサーがいうのよ。展示する服より、じぶんの器量をヒケラかそうという、映画スター気取りのモデルは、たくさんだって……着ているものの枠《フレーム》のなかにキチンとおさまって、デザインや生地の美しさを生かしてくれるような、すぐれた感覚をもったひとだけを集めたい意向なの……あなたにうってつけの話だと思って、推薦しておいたわ。あなたをグループの代表にするという条件で……」
「あたしなんか、柄でもない。ほかに、いくらでもいいひとがいるでしょう。そんな責任を負わされて、外国へ行くなんて、考えただけでも、気が重くなるわ」
カオルは、機嫌よくうなずいて、
「気がなければ、しようのないことだわね。無理におすすめしないわ……その話はべつにして、あなたが行きたいと言えば、秋川なら、よろこんでお金を出すでしょう……あなた、秋川をどう思っているの?」
「どうって、考えたこともないわ」
「本音《ほんね》なら、それがあなたの憂鬱の原因なのよ。見抜いたみたいなことを言うようだけど、あなたの神経衰弱《ノイローゼ》は、生活のなかに、大切なものが足りないせいなの。精神を高めて、生きて行く張りあいを感じさせる、希望といったようなものが……」
「よく、わからないけど……」
「欺《だま》されたと思って、恋愛をしてごらんなさい。憂鬱なんか、いっぺんに消しとんでしまうわ……手近なところで、秋川にうちこんでみたらどう? 秋川に金をだしてもらって、外国へでも行って来ると、むかしのような、元気なサト子さんになること、うけあいよ」
サト子は、精いっぱいにつとめていたが、我慢しきれなくなって、思いきり手強くはねつけた。
「いろいろとおっしゃってくださるのは、ありがたいんですけど、間もなく、お祖父さんが帰ってくるので、日本を離れるわけにはいかないのよ」
「水上さんが帰ってくるんだって?」
「飯島の叔母は、庭先へさえも寄せつけないでしょうから、あたしが引取って、世話をしてあげるほかないの」
カオルは、取りはずしたような表情でサト子の顔を見ていたが、口もとに、なんともつかぬ笑皺をよせて、
「そんなお便りでも、あったの?」
と、あわれむような調子で言った。
「有江の名で、電報、よこしたわ。ニューグランドで会いたいなんて」
「あなた、どうかしているわ。水上さんが、自身でいらっしゃるなら、代理のひとをよこすことはないでしょう。そうじゃなくって?」
そう言われれば、それにちがいない。飯島の叔母に知られたくないので、有江の名で電報をよこしたのだとばかり思いこんでいたが、都合のよすぎる解釈だったらしい。
シアトルからきた電報を見た瞬間、サト子は、たぶん貧乏に疲れて帰って来るお祖父さんを、西荻窪の植木屋の離屋にひきとって、根かぎり世話してあげようと思った。じぶんはもうひとりではなく、お祖父さんといっしょに暮してゆけるという、楽しい希望に鼓舞され、どんなにでも働いてやろうと意気ごんでいたが、お祖父さんに会うという喜びは、これでまた、当分、おあずけになったと思うと、気持の張りがなくなって、急にがっくりなってしまった。
「そのく
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