らいのことで、そんなに力を落すことはないでしょう。水上さんが帰っていらっしゃらないから、こっちから会いに行く、というような気にはなれないの?……さっきお話ししたファッション・ショウは、シスコを経由するはずだけど、旅客機でなら、シアトルまで、わずかの時間で行けるのよ。並木通りの『アラミス』というレストラン、ごぞんじ? モデル・クラブの事務所の近く……」
「ええ、知っているわ」
「二時ぐらいに、そこでプロデューサーに会って、いろいろ聞いてごらんになるといいわ」
「プロデューサー、なんという方なの」
「おぼえていらっしゃるでしょ。飯島に別荘をもっていた神月伊佐吉……」
サト子は、われともなく筒ぬけた声をだした。
「あの神月さん?」
あの夜、扇ヶ谷の谷戸の上で、カオルは山岸の子でなく、神月の子だという深刻な告白をきいて、ひとごとながら強いショックを受けた。そのときのおどろきが、まざまざと心によみがえってきた。
カオルと芳夫ぐらい、似たところのない姉弟もないものだと、そう思い思いしたが、疑問をおこすだけのことは、たしかにあったのだ。そういう思いで、それとなくカオルの横顔をうかがっていると、カオルは、瞼をおしあげて、マジマジとサト子の顔を見かえした。
「どうして、そんな顔をなさるの?」
サト子は、あわてて、
「思いがけない名を聞いたもんだから」
と言いまぎらしたが、カオルに顔を見つめられているうちに、うしろめたい思いで、ひとりでに顔が赤くなった。
よく頭の回るカオルのことだから、ソロソロ疑いかけているのかもしれない。もういちど強くつっこまれたら、あの夜、愛一郎とカオルの話を聞いてしまったことを、白状するほかはない。サト子のあわれなタマシイは、尻尾《しっぽ》を巻いて逃げだしにかかった。
「人間ばなれがしたようなあの顔、いまでも忘れないわ……子供のとき、あたしも神月さんを好きだったのかもしれないわね」
カオルは機嫌をなおして、
「ずいぶん年をとったけど、美しいことは、いまでも美しいわ……でも、神月の美しさって、空虚な美しさよ。白痴美といったようなもんだわ」
腕時計に目をやりながら、
「ともかく、あなた、お出かけなさいよ……あたしは、喧嘩の仕上げをしてくるから」
カオルが出て行くと、サト子は、レーンコートをとって腕を通したが、そのまま、また椅子に腰をおろした。
海から吹きつける強い風が、ガタピシと窓をゆすぶる。昼すぎから暴風雨になるだろうと、ラジオで言っていた。風が変ったらしく、工場のサイレンや、ポンポン蒸気の排気管や、可動橋の定時の信号や、汽艇の警笛《シッフル》や、さまざまな物音が、欄間《らんま》の回転窓の隙間から雑然と流れこんでくる。
約束は二時だから、急ぐことはないが、そんなことより、神月に会いに行くということを含めて、いっこうに気乗りがしない、知らない国に出かけて行って、お祖父さんに会ってくるのも悪くないが、カオルがすすめるから、その気になったまでのことで、強く望んでいるわけではない。
この夏の終りごろまでは、サト子は、後さがりばかりしているような、無気力な女ではなかった。生きてゆくことに希望をもち、斬新な生活の方法を考えだして実行するという、張りのある世渡りをし、一日一日を満足して生きていたものだが、このごろ、心の支えがなくなったようで、すこしこみいったことになるとすぐ、どうでもいいと投げだしてしまう。
あまりひどい貧乏では困るが、見た目におかしくなければ、着るものなんかどうだっていい。食べてみたいというようなものもない。腹がふさがる程度に食べられれば、それで結構といったぐあいで、どうしたいというような欲望は、ぜんぜんなくなった。
「二十四だというのに、これはまたひどく枯れきったもんだわ」
サト子自身も、おかしいと思っている。こんなことばかりしていると、カオルが言ったように、意地の悪い、ひねくれたオールド・メードのようになってしまうのだろう。
越中島の白い煙突、黒い煙突からたちのぼる煙が、空から吹き落され、黒い靄のように掘割の水のうえを這っている。サト子は、そろそろ荒れかけてきた、さわがしい風景をながめながら、あのころ、あんなに張切っていたのはなんのせいだったろうと、しんみりと思いかえしてみた。
そんなサト子にも、どきっとするような思い出がないわけではない。
青梅の奥で、キャベツ、蕪《かぶ》、トマト、胡瓜など、日本人向きの清浄野菜をつくっている坂田という青年が、中野の市場まで荷を出しに行った帰り、サト子が離屋を借りている植木屋の門の前で牛車をとめ、自動車がクラークションを鳴らすように、牛の首を叩いて、モーと啼《な》かせる。芯まで焼けとおったような黒い顔を、汗だらけにしてはいってきて、サト子の部屋の縁
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