芳夫に浴びせかけた。
「つまるところ、山岸さんは手も足もでないので、あなたを通じて、そういう意向をほのめかしているわけなのね?」
「ひっこむくらいなら、こんな仕掛けをすることはない。おやじは坂田の急所をおさえて、横領罪へ追いこむところまで、押してみるつもりでいるんです」
由良は、凍《こご》えたような冷たい顔で、
「あたし、笑いたくなるのよ……ねえ、テープ・レコーダーというものは、あとで修正したり、言葉を差込んだり、勝手なことができるものなんでしょ。そんなものに、どれほど法的価値があるというんです?」
「離婚訴訟でコナされたせいか、いろいろなことを知っていられるので、難儀します……これは、試験勉強の虎の巻のようなものだが、法的価値がないことはない……実験してみましょう」
芳夫は脇卓のところへ行くと、巻枠《リール》を掛け替えて、スイッチをあけた。ドビュッシイの『金魚』のメロディに乗って、由良ふみ子の、(へえ、あなただったの)という甲高《かんだか》い声が流れだしてきた。二人の会話に、外套置場のボーイたちの話やマネジャーの声が重なりあっている。
「この場の会話は、雰囲気で裏打ちしてある。不在証明の反対で、現場証明というやつ……ピアノのメロディや、ボーイたちの話声は、雰囲気をつくるだけでなくて、それ自体、証人なんです。この部分は、修正しようにも、できないから、法律的にも信憑性《しんぴょうせい》があるわけでしょう」
ボーイが、電話だといいにきた。芳夫は、レコーダーのスイッチを切って、電話に立って行ったが、間もなく、ブラリとしたようすで戻ってきた。
「坂田でした。すぐ近くで電話をかけているらしい……忙しいから、十分ぐらいにしてくれというので、いいと言ってやりました」
考える顔つきになって、
「坂田は牛車をひくのをやめて、このごろ、毎日、東京へ出てきている。なにがあったというのかな」
由良が、あわてたように言った。
「レコーダー、レコーダー……巻枠を戻しておかなかったでしょう?」
「あっ、そうだった」
「もう来るわ。はやくなさいよ」
芳夫は、脇卓のほうへ飛んで行ったが、巻き戻すひまもないうちに、うわさのひとは、ボーイに案内されて食堂へ入ってきた。
あわてて椅子に戻ると、造花のカアネェションの間から顔をだしている、小さなマイクの頭を花の中へおしこみながら、由良のほうへ身体を倒して、
「巻枠は、折をみて巻き戻します……勘づかれるから、マイクのはいった花瓶を見つめないようにしてください」
と、ささやいたが、由良には、よく聞きとれなかったらしい。え? え? と聞きかえしているうちに、坂田省吾は二人のいるテーブルへやってきて、やあ、と無造作に頭をさげた。
「いつぞやは、熱海で……」
「わたくしどもこそ」
由良は、大ホステスの風格で、椅子に掛けたまま鷹揚《おうよう》にあいさつをかえすと、子供の手首のようにくびれた二重のあごを、芳夫のほうへしゃくった。
「この間、熱海ホテルでお会いになった山岸弁護士の長男の芳夫さん……口髭なんか生やしていますが、これでまだ二十五なの。大学の法科を出て、いまお父さんの事務所で働いていられるんです」
トックリ・セーターにジャンパーをひっかけ、アメリカものらしい、バカげて底の厚いドタ靴をはいた坂田のようすを、芳夫は髭を撫でながら観察していたが、こいつを怒らしてみたいとでもいうように、椅子から立って、悪丁寧なお辞儀をした。
「あなたが坂田さんですか。いちど、お目にかかりたいと思っておりました。私は、シアトルの有江さんの代理です……どうか、お掛けください」
坂田は椅子には目もくれず、テーブルのそばに立ったなりで、
「いや、有江さんの伝言を伺ったら、すぐ失礼しますから」
と、淀《よど》みのない口調で言った。
五尺八寸くらい。バランスのとれた見事なからだつき。アメリカでは鉱山《やま》歩きばかりしていたということだが、皮膚の芯まで日にやけ、一流のスポーツマンに見る、健康そのもののような爽《さわやか》な印象を与える。
「でも、そうして立っていらしても、あなた……」
由良は手でシナをしながら、悪強《わるじ》いにかかった。うるさくなったのか、坂田は椅子をひっぱって、テーブルと脇卓の間に掛けた。芳夫の顔に、まずいところへすわられたという、当惑の色が浮かんだ。
「それじゃ、話が遠いから」
芳夫のほうへ陰のない笑顔をむけると、坂田は、うしろの脇卓の端に肱をかけ、長々と足をふみのばした。そのひとらしい自然さがあって、そんなようすも、無礼には見えなかった。
「ここで結構……さっそくですが、有江さんの伝言というのは、どういうことでしたか」
由良は、子供にでもいうような調子で、なだめにかかった。
「有江さんの伝言もそうだけど、
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