の七分コートを、ふかふかと着こんだ大矢シヅに傘をさしかけられ、沈んだ顔で、街路樹の下を歩いている。
「三百五十万ドルという、遺産を身につけていることも知らずに、あんなかっこうでパンスケと相合傘で歩いているというんだ……これが、世の中というものですか」
 しゃくったような言いかたが、癇にさわったらしい。由良は顔色をかえかけたが、笑顔《えがお》になって、芳夫のほうへ向きかえた。
「あたしより、あれのことをよくごぞんじだから、おたずねするのですが、サト子は、いま、どこにいます? へんな女と連れになって歩いていたけど、あれは、なにものなの?」
「飯島の大矢という漁師の娘で、横須賀で、みょうなショウバイをしていたのが、このごろファッション・モデルになりあがって、たいへんな羽振りだというんです……築地の『ヴェニス荘』というアパートに住んでいますが、サト子さんは、あの娘に養われているというのが実情らしい……どうかしましたか?」
「困るわね」
 芳夫の目が、意外な鋭さでキラリと光った。
「また、追いだす?」
 由良は、背筋を立てて芳夫の顔を見返した。
「なんて、言ったの?」
 芳夫は窓ぎわから離れると、レコーダーのスイッチを切って、もとの椅子におさまった。
「現在、叔母がありながら、肉親のめぐみも受けず、仕事の口にありつこうというので、氷雨の中を走りまわっている……へんな話だというこってすよ」
「サト子は、じぶんのしたいようにしているのよ」
「そうでしょうか?……いま、しょったれた恰好をしていると、おっしゃったけど、あんなふうにしたのは、誰でしょう?……モデルの事務所へ行って、家へ寄りつかないで困るから、サト子に仕事をやらないでくれって、おたのみになったのは、あなたでは、なかったのですか」
「あたしです」
「西荻窪の植木屋の離屋から、サト子さんを追いだしたのも?……すこしくらい間代がたまったって、こんなことをするつもりはなかったんだが、叔母さまのたのみだから、と植木屋のおやじが、弁解していました」
「あれは意地っぱりだから、すこし困らしてやらないと、あなたのところへ嫁《ゆ》く気なんかに、なりはしないでしょ?……東京へ帰ったら、お宅へ伺うという約束で、出張手当までとっておきながら、お伺いもせず……あなたのために、急《せ》かしてやったつもりなんだけど、お気にいらない?」
「そういう恩は、着たくないもんだ……十三億をこっちへ取ろうというのは、それは、サト子さんの正当な権利だから……そのあとで、おやじとあなたが、どういう分配をするのか知らないが、私は、サト子さんだけのために、やっているつもりなんです」
「サト子だけのために? 結構でしょうとも……どのみち、あなたところへ嫁くんだ。どんなに力を入れたって、損にはならないわねえ。三百五十万ドルという、金《きん》の裏打がしてあるひとなんだから」
 由良はバカにしきった顔で、突き放すようなことを言った。芳夫はテーブルに頬杖《ほおづえ》をつきながら、ふむと鼻を鳴らした。
「それとも、ちがうようだ……金《かね》は、ほしくないことはないけど、われわれは、おばさまたちのように、ガツガツしちゃいないんですよ」
「あなたが、サト子を好きだってことは、あたしも知っているわ」
「また、ちがった……われわれの年代は、あなたが考えているほど、惚れっぽくない……むかし、夏の鎌倉で、おばさまたちがやったように、あっちこちで、簡単にベタベタくっつくようなことはしないんですよ」
「すると、あなたの目的はなんなの?」
 芳夫は、心のありかを隠そうというように、曖昧な表情をつくりながら、
「正直なところ、じぶんにも、よくわからないんですがねえ、なにか真剣になって打込むものがないと、私のような男は、すぐ堕落してしまうから、そんな精神で、やっているのでは、ないのでしょうか。つまりは、サト子さんのためでも金のためでもない。エゴイズムといったようなもの……」
 由良は欠伸《あくび》をしながら、壁の電気時計を見あげた。
「おしゃべりは、これくらいにしておきましょう。約束は何時なの?」
「四時です」
「自信がありそうなことを言っているけど、あてになる話なのかしら」
「西荻窪へ、アメリカから、また手紙が来ていました。届けてやると言って、預ってきましたが……」
 由良が椅子から身体を乗りだした。
「この前の手紙のつづき、といったようなものなの?」
「水上氏の遺言に立会った、二人の証人のうちのひとり……シアトルの有江曽太郎というひとの手紙なんですが、おばさまとしては、聞きにくいところがあるかもしれない……本来なら、長女のところへ行くはずのものが、なぜ、あなたを素通りして、お孫さんのサト子さんのほうへ行くようになったか、そのへんの事情が、その手紙に、くわしく書
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