ても、うるさいピアノね。さっきから奏きづめだ。やめてもらうわけにはいかないの。話もなにもできやしない」
「そんなに、うるさいですか……二時間ほどの間、奏きづめに奏いてくれるように、たのんであるんですが……おばさま、お聞えにならない?……クルクル回る音が?」
由良は首をふった。
「聞えないわ。なんのことなの?」
芳夫は椅子から立ちあがると、脇卓のテーブル・クロースをまくって、棚板の上に置いたテープ・レコーダーを見せた。
「こんな仕掛けがしてあるんです……マイクは、この花瓶の中に入れてある。ピアノは、この場の雰囲気をつくるためなんで……」
レコーダーのテープの巻枠《リール》が、リズミカルにクルクル回っている。
「どこで音がする? でたらめをいうのも、いいかげんになさい」
からかわれたのだと思って、由良は、年がいもなく大きな声をだした。芳夫は、子供のままに発達をとめたような、年輪不明の顔に薄笑いをうかべながら、
「おばさまが、それほどオクレているとは、思っちゃいません。ちょっと、気をひいてみただけのことなんで……」
「オクレているっては、あなたのことでしょう。こんなオモチャ、大まじめな顔で担《かつ》ぎこんでくるなんて、頭の程度が知れるわね」
「それは、考えすぎです。この家は、バイヤーたちの商談の場なので、こんなキカイを用意しておいて、お求めに応じるようになっているんです……すこし、便利すぎるようだが」
「トロくさい……第三弁護士会の会長といえば、抜目のない代表みたいなもんだと、聞いていたけど、こんなタワケたものを……」
「これは、私の思いつきでも、おやじの発明でもありません。たとえば、チューインガムね……食べものにゴムを使うことを考えたように、タンゲイすべからざる契約前の商談に、テープ・レコーダーを利用することを思いついた。これは、アメリカ人の斬新性というやつです……ドタン場になると、とかく逃口上を言ったり、嘘をついたりする日本の商人を相手にするには、こういう方法で言質をとっておくにかぎると、アメ公のバイヤーたちが言っております」
由良は耳も藉《か》さずに、
「目ざわりだから、あっちへやってちょうだい。なにをするにしても、もうすこし、まじめにやっていただきたいわ」
「そうはおっしゃるが、これは、おやじの霊感の泉なんです……世間が寝しずまったころ、寝床へはいって、こいつを枕元へ置いて、霊感のひらめくまで、何十回となく、くりかえして聞く……坂田のものの言いかた、言葉の陰影と抑揚、言いちがい、言いなおし……微妙なもののなかから、坂田の弱点を発見する……そのあとで、弁護士会のクラブへ持って行って、弟子どもを集めて、それぞれのちがう耳で聞かせて、意見を述べさせる……あなたのおっしゃるような、たわいないことじゃないんです」
由良は、渋々うなずいてみせた。
「それは、わかるけど……私が言いたいのは、そんな大切な掛け合いなら、山岸さん自身がやってくだすったらよかろうということなの」
「おやじは、蜘蛛《くも》の巣の奥にいて、蝶《ちょう》々トンボがひっかかって、身動きできなくなったときに、はじめてうごきだすんです……この夏、熱海ホテルで坂田と顔をあわせたことだって、蜘蛛の常識からいえば、普通には、ないことなんですね。おばさまが、うるさくいうから、出て行きましたが、あれは失敗だったと、おやじも言っていました……サト子さんのお祖父さんの、十三億の遺産のことは……」
由良が、きびしい声で訂正した。
「あたしの父です」
「ご尊父さまの遺産のアレコレは、事件として、おやじに一任なすったのだから、行きつくアテがつくまで、だまって見ていてくださるほうがいいです」
階下のサロン・バアでは、調子を換えて、ドビュッシイの『沈める寺』を奏きだした。
由良は、窓ガラス越しに、目の下の通りを、だまってながめている。賢夫人の通性で、だまりこむと、腹のなかがわからなくなる。芳夫は煙草に火をつけると、そば目だてしながら、由良のようすをうかがっていたが、七五三の子供の兵隊によく似た、かぼそい口髭を撫でながら、そろそろと探りだしにかかった。
「なにを考えているんです? あなたが、そうしているときは、いちばん、こわいときなんだね?」
由良は、通りから目をはなさずに、つぶやいた。
「あなたのような、いい加減なひとのところへお嫁にいくサト子も、かわいそうなものだと、思っているとこなの……ほら、あそこを歩いている……いやだ、どうしたんだというんだろう。あんな、しょったれたコートを着て……」
芳夫が窓のそばへ立って行った。
葉を落しつくした街路樹の裸の枝々が、氷雨に濡れて、寒そうに光っている。着古した、玉ラシャのオーヴァ・コートに貧苦のやつれを見せたサト子が、豪勢なラクダ色
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