の車の男の顔を、見ておきなさい」
 四十五六のバイヤーらしい男が、脇窓に肱をかけた無造作なかっこうで、ハンドルを握っている。額が禿《は》げあがって、首のあたりが紅を塗ったように赤い。典型的なワシ鼻で、マックァーサーの顔に、どこか似ていた。
「見たら、そこの仕切りを叩いてください」
 言われたようにガラスの中仕切りを叩くと、それでスピードが落ちた。むこうの車は辷るように新橋のほうへ遠ざかって行った。
「あのひとは、なんなの?」
「あれは、ウィルソンという男です。横須賀の女たちは、ジャッキーといっているが、あの男が、あなたの身辺に立ちまわるようになったら、用心なさい」
「用心って、どうすることなの?」
「それは、あなたの判断で……私には職務の限界があって、これ以上の助力はできない。ウィルソンという男の顔を見せて、あいつは、あぶないと、注意してあげるくらいが、せいぜいのところだと思ってください」
 あとは、なにを聞いても返事をしないぞ、というような冷淡な顔で、ゆっくりと煙草に火をつけた。

  ウラニウム

 田村町の裏通りにある、『ジョン』というレストランの二階へ、サト子の叔母の由良ふみ子が重々しいようすであがってきた。無意味な失費を厭《いと》うので、新橋から氷雨《ひさめ》に降られながら歩いてきたのらしい。茶のオーヴァ・コートが濡れしおれている。
 時はずれで、客のいない食堂のなかを見まわしていたが、通りにむいた窓ぎわのテーブルで、カオルの弟の山岸芳夫が煙草を吸っているのを見つけると、
「おや、あなただったの?」
 といいながら、ボーイにコートをわたし、のたのたと芳夫のそばへ行った。
 年にしては派手すぎるマチス模様のクレープのアフタヌンを着ている。歩くたびに、いっせいに贅肉《ぜいにく》が揺れるので、マチスの魚や海草が、みな生きて動く。
「山岸さんだとばかり思っていた。電話の口上は、そんなふうだったから」
 芳夫は、見たらわかるだろうといったふうに、細く剃りこんだ口髭を撫でながら笑っている。由良は、嫌気な表情を露骨に見せながら、小さな椅子に大きくおさまると、うさん臭そうにジロジロと食堂のなかを見まわした。
「しゃれたみたいな、なまめかしいみたいな、へんな感じだ……どういう家なの、ここは」
 芳夫は、渋いチョーク縞《じま》のスーツの膝に散った煙草の灰を、指の先で器用にはじきながら、
「この家は、アメリカ人のやっているバア・レストランで、スウェーデン式の前菜を、アメリカ風にあちこちした、しゃれたオードォヴルを食わせるので有名なんです……アメちゃんのバイヤーたちの、たまりみたいになっているんでね」
 階下のサロン・バアで、楽士がピアノでドビュッシイの『金魚』を奏《ひ》いている。
「オードォヴルはいいけど、こんなところへ呼びだして、どうしようというわけ? いくら、あなたがオマセさんでも……」
 芳夫は、笑いもせずに、はじきかえした。
「そんなご心配はなさらないで……きょうは、まじめな商談がございますんです」
「あなたは、抜け目のないひとだから、むだに、ひとを呼びだすなんてことは、ないのでしょうけど……それで?」
「ここで坂田省吾と、掛けあいをやろうというのです。おばさまには、立会いくらいのところで、おさまっていただいて……」
 サロン・バアのピアノは、ショパンの『雨だれ』になった。氷雨の雨足にテンポをあわせるように、だるい調子で奏いている。由良は眉の間に嫌皺《いやじわ》をよせながら、
「サト子なんかもそうだけど、あなたがたの話って、いきなり、突っ拍子もなくはじまるので、あっけにとられてしまう」
 と、投げだすように言った。
「話には、順序というものがあるでしょう。アプレ式の会話っていうのかもしれないけど、わかるように話してくれなくちゃ、わかりゃしない……ここで、坂田となにをするって?」
「掛け合いをすると申しましたが、お聞きとりになれませんでしたか」
「あなたが、あの坂田と?」
 芳夫は顎《あご》をひいて、いんぎんにうなずいてみせた。由良は、相手になる気もなくなったふうで、
「聞きちがいでなけりゃ、結構だけど……掛け合いって、漫才のことですか」
 芳夫は、咽喉仏《のどぼとけ》を見せながら、はっはっと笑った。
「さすがは賢夫人だけのことはある。ウガったことをおっしゃいますね……そうですよ、漫才をやろうというんです」
「心細い話だわね……この夏、熱海の会談で、腹を立てて帰ったひとでしょう……あなたなんかの誘いだしに乗って、こんなところへやってくるとは思えないね」
「かならず来ます。坂田としては、来ずにいられないわけがあるんだから」
「そんなら、なおさらのことよ。あなたみたいなひとを、むけてよこすなんて、山岸さんも、どうかしているわ……それにし
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