とも言わずにおいた。秋川との約束は果したのだから、もうこのへんで会話をうち切ってもいいわけだ。サト子は、間のびのした声でたずねた。
「それで、あたしに、どうしてくれとおっしゃるの?」
「これっきり、というのではなく、東京へお帰りになってから、いちどだけでもよろしいから、父のところへ遊びに行ってやってください」
 サト子は、うるさいクドキの場から解放されたい一心で、あっさりとうけあった。
「そんなことなら、おやすいご用だわ。お望みのように、してあげてよ」


 サト子が玄関へはいろうとすると、紺サージの背広を重っ苦しく着こんだ中村吉右衛門が、脇間の薄暗いところで婆やとなにか話していたが、サト子のほうへ振り返って、
「こんばんは」
 と低い声で挨拶した。
 警察や中村がどう思おうと、意識して愛一郎をかばったおぼえはない。きのうまでは、なにを言われても平気だったが、空巣だと思われている当の青年の家で、捜査課の係官と顔をあわせるのは、さすがに、気が重かった。
「あなたでしたのね。けさほどは……」
 美術館を出たときから気にやんでいた、嫌な瞬間がやってきた。
 飯島の澗の海で溺れたはずのそのひとに、きょう美術館で会おうなどとは、夢にも思っていなかった。嘘もカクシもない、ギリギリの真実だが、そんなことを言ってみたところで、通じる話ではなかった。
 サト子は叱られた子供のように目を伏せた。
「あたしに、なにかご用なの?」
 聞えたのか聞えなかったのか、中村は、みょうな咳ばらいをして、
「外へ出ましょうや。いずれにしても、たいしたことじゃ、ありませんから」
 と、ささやき、婆やに、さりげない挨拶をして、サト子を庭先へ連れだした。
 荒れた花壇の縁石《へりいし》のそばで足をとめると、中村は、雲籠《くもご》りの淡い月の光を浴びながら、ひきしまった威のある顔をこちらへむけた。
「飯島の砲台トンネルの下に、洞穴がありますが、ごぞんじですか」
 サト子は、すなおに、うなずいた。
「子供のころ、泳いで、あのなかへはいったもんだわ」
「そんな古い話じゃないんですよ」
 中村は、ポケットから、水着用の、ナイロンのネッカチーフをだしてみせた。
「これに、おぼえがありますか」
 サト子は、はっと息をのんだ。
「それ、あたしのよ……あのなかへ落したんだわ。悪いことって、できないものね」
 サト子の言いか
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