せに、わざとわからないふりをしていらっしゃる。ごいっしょに夕食をしなかったのは、父が、あなたとふたりきりになりたがっていたので、望むようにしてやりたかったからです……それで、父はなにをお話ししたんでしょう?」
「いろいろなことを」
「父が、あなたを好きだということも?」
 このひとたちの生活には、愛しているだの、好きだのということのほか、話題がないみたいだ。
「お返事のないところをみると、父は切りだせなかったのでしょう……ねえ、聞いてください。父は、頭のなかがひっくりかえるほど、あなたに夢中になっているんですよ」
「うれしいみたいな話ね……でも、それは、あなたの想像でしょう? パパが、あなたに、そんなことを言うわけはないから」
「母が亡くなってから、ぼくたちは、仲のいい友達のようにやってきました……父が、なにを考えているか、どうしたいと思っているか、目の色からだって、ぼくには、わかるんです……美術館のテラスであなたと話している間じゅう、父は、食いつきたいとでもいうようにあなたの顔を見詰めていました……なにか言いながら、無意識にあなたの手にさわって、気がついて真っ赤になった……名刺をさしあげて、気のすすまないあなたを、むりやりここへお誘いした……女のひとに、そんな素振りをするなんて、母が亡くなってから、ただのいちどもなかったことなんです」
 誤解というにしても、あんまりくだらなすぎる。サト子は、思わず、くすっと笑った。
「その話は、よしましょう」
「ぼくのような子供が、こんなことを言うのは、さぞ、おかしいでしょう。でも、父のために、このことだけは、お話ししておかなくてはならない……このごろになって、ぼくにも、やっとわかりかけてきましたが、父自身は、こんなにまで、じぶんを枯らしてしまうつもりはなかった。ああ見えても、たいへんな寂しがり屋ですから、再婚したい気はあったのでしょうが、きょうまで、ぼくが、極力、邪魔をしていたんです」
「それは、なぜ?」
「亡くなった母を、ぼくは、生きていたときとおなじように愛していますが、父も、そうあるべきだと思って、ほかの女のひとに気を散らすようなことは、絶対にゆるさなかった……ところで、きょう、父の目の色を見て、きょうまで、ぼくが、どんなに父を苦しめていたかということを、つくづく、さとりました」
 愛一郎には、つらいようなことも、冷淡なこ
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