るサト子の手をとろうとした。サト子は、嫌気になって、椅子をうしろにずらすと、愛一郎は宙に手を浮かせたまま、嘆くように言った。
「もう、お目にかかれないのでしょうか」
「あたし、あなた方のような暢気《のんき》な身分じゃないのよ。食べるために、毎日、めまぐるしいほど、キリキリ舞いをしているんです……お名刺をいただいたけど、お宅へ伺う暇なんか、なさそうだわ」
 愛一郎は、力がぬけたようなようすになって、
「そんなふうに、おっしゃるようでは、パパは落第だったんですね?」
 この親子は、サト子などとは、頭のまわりかたがちがうらしい。このひとの父には、間違いつづきの会話で、頭の芯がくたびれるほど悩まされたが、息子までがこんな調子では、とても受けきれない。サト子は、渋い顔になって、返事をせずにいると、愛一郎は、サト子の顔色にとんちゃくなく、
「パパは、なにか、まずいことを言って、あなたを怒らせたのでしょう……パパってひとは、そういうときには、かならずヘマをやるんだから……」
 そう言いながら、四阿のガラスの囲い越しに、灯影《ほかげ》の洩れる客間のほうを指さした。
「あれを見てください……パパは参ってしまって、悩んでいるんです」
 秋川は部屋のなかを歩きまわっている。カーテンに影がうつっては、また、ついと遠のく。
 愛一郎を振りはなすにしても、すこしは、やさしくしてやってくれとたのんだ、秋川の情けないようすを思いだす。秋川は話の結末を案じて、椅子に落着いていることすら、できなくなっているらしい。
 愛一郎は、動きまわる秋川の影を、沈んだ目つきでながめていたが、サト子のほうへ向きかえると、裾から火がついたようにしゃべりだした。
「あなたなどが、ごらんになったら、堅っ苦しい、陰気くさい人間に見えるのでしょう……むかしは元気がよすぎるくらいだったんですが、母が亡くなってから、すっかりひっこんでしまって、古い陶磁なんかばかりヒネクリまわしているもんだから、モノの言い方を忘れてしまって、たまさか、たれかに会うと、アガって、へんなことばかり言うんです……」
「あなたのパパは、よく気のつく、おやさしい方よ……アガってもいなかったし、へんなことなんかも、おっしゃらなかったわ。あなたが夕食もしないで、こんなところにひっこんでいるのを、心配していらしたようだけど……」
「あなたは、なんでも知っているく
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